第三十八話 小さなアリスと狼の決意
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
〜不思議の国のアリスをモチーフにした作品です〜 白兎に導かれて“不思議の国”へ迷い込む、十四歳の少女アリス。 そこにいたのは、甘く優しい白兎の美青年ノア。 アリスを守る彼は、この国に隠された秘密を知っていた。失われた記憶を巡り物語が再び動き出す。 可憐で不穏な、童話ファンタジー。 白兎は、私を救いに来たの? それとも、もう二度と帰さないために迎えに来たの?
本文
第三十八話 小さなアリスと狼の決意
アザレアを探して、ガルは城の廊下を進んでいた。
小さくなったアリスは、ガルの上着の胸ポケットに隠れている。
ハンカチに包まれているよりも息がしやすく、外から姿を見られる心配もない。ただ、ガルが一歩進むたびに身体が大きく上下するので、アリスはポケットの縁を両手でしっかりと掴んでいた。
普段なら気にも留めない廊下の景色が、今はすべて巨大に見える。
赤い絨毯の模様は広い花畑のようで、壁に並ぶ肖像画は遠い空からこちらを見下ろしている。すれ違う使用人たちの足音さえ、地鳴りのように大きかった。
「……大丈夫ですか」
ガルが周囲に聞こえないよう、小さな声で尋ねた。
「はい。少し揺れますけど」
「歩幅を狭くします」
「急がなきゃいけないのに、すみません」
「転がり落ちる方が問題です」
真面目な声だった。
ガルは本当に歩幅を小さくしたらしく、揺れが少しだけ穏やかになる。
「ありがとうございます」
「いえ」
短い返事のあと、ガルは廊下ですれ違った使用人へ声をかけた。
「アザレア様を見なかったか」
「アザレア様でしたら、東の小庭にいらっしゃいます」
使用人は丁寧に頭を下げる。
「ご令嬢方を招いて、お茶会をなさっているかと」
「……お茶会」
ガルの声が、わずかに硬くなった。
アリスはポケットから、そっと顔を覗かせる。
「ガルさん。お茶会、苦手なんですか?」
「苦手ではありません」
「でも、耳が伏せています」
「気のせいです」
ガルはきっぱりと言った。
けれど狼の耳は、やはり少しだけ伏せたままだった。
*
東の小庭には、丸テーブルがいくつも並べられていた。
赤と金の椅子には、華やかなドレスをまとった令嬢たちが腰かけている。
薔薇色の紅茶。銀の皿に盛られた焼き菓子。宝石のように透き通った果物。
扇子が開くたび、甘い香水と薔薇の香りが空気へ広がった。
その中央に、アザレアがいた。
ハートの女王が纏う赤に、甘い花色を一滴混ぜたような、鮮やかなピンク色の髪。
光が流れるたび、淡い桃色と赤紫が髪の奥で揺れている。
今日のドレスは深い葡萄色だった。鮮やかな髪をいっそう引き立てていた。
ガルが小庭へ足を踏み入れた瞬間、令嬢たちの視線が一斉に集まった。
「あら、ガル様!」
「まあ、珍しい!」
「こちらへいらっしゃるなんて!」
鈴を転がしたような声が、あちらこちらから上がる。
ガルはそれらを気にしないふりをして、アザレアへ深く礼をした。
「アザレア様。少し、お尋ねしたいことがあります」
「あら。ずいぶん急いでいるのね」
「はい。急ぎの用です」
アザレアはティーカップを持ったまま、楽しそうに目を細めた。
「なら、まずは席へお座りなさい」
「いえ、私は――」
「座りなさい」
笑顔のまま、もう一度告げる。
命令だった。
ガルは一瞬だけ黙り、やがて諦めたように頭を下げた。
「……失礼いたします」
空いていた椅子へ腰を下ろした途端、令嬢たちが身を乗り出した。
「ガル様は、最近〈境界扉の監察〉を任されているのでしょう?」
「異常な扉が現れた時には、兵を率いて封鎖なさるとか」
「扉の向こうには、どのような世界がありますの?」
「若くして国の境界を守るお役目だなんて、素晴らしいですわ」
次々と投げかけられる質問に、ガルはひとつずつ律儀に答えていく。
令嬢たちが憧れの目を向けるのも無理はなかった。
黒茶色の髪に、凛々しい青い瞳。口数は少ないけれど、誠実で責任感が強い。そのうえ、若くして国の境界に関わる重要な役目を任されている。
「お休みの日は何をなさっているの?」
「訓練と書類整理を」
「好きなお茶は?」
「特にこだわりはありません」
「では、好きな女性のタイプは?」
最後の問いで、ガルの表情が固まった。
アリスはポケットの中で目を瞬かせる。
ガルの青い瞳が、ほんの一瞬だけ助けを求めるように揺れた。
「ガルさん、頑張ってください。ええと……一緒にいて落ち着く方、とか……」
アリスは何とか助け舟を出そうと、小さな声で囁いた。
けれど、胸ポケットの中に隠れている少女から、好きな女性の答えを教えられる状況の方が困るらしい。
聞こえたのか、ガルの視線が胸元へ落ちる。
そして、先ほどよりもさらに困った顔になった。
「……今は、職務に専念しております」
「まあ」
「真面目ですのね」
「そこが素敵ですわ」
令嬢たちは嬉しそうに笑った。
ガルの狼の耳が、また少し伏せる。
アザレアはその様子を眺めながら、ひどく上機嫌そうに紅茶を飲んでいた。
絶対に楽しんでいる。
アリスはポケットの中から、アザレアを恨めしそうに見上げた。
しばらくすると、お茶会は終わりを迎えた。
令嬢たちはひとり、またひとりと席を立っていく。
「では、アザレア様。また次のお茶会で」
「ガル様も、またお会いしましょうね」
「はい。機会があれば」
ガルは疲れたような声で答えた。
最後の令嬢が去ると、ガルはすぐに立ち上がった。
「アザレア様」
「やっと本題にはいれる?」
アザレアは頬杖をつき、愉快そうに笑った。
「ずいぶん人気なのね、ガル」
「……からかわないでください」
「からかっているのよ」
悪びれる様子は少しもない。
アリスは、ようやくポケットから顔を出した。
「アザレア様」
鈴のような小さな声に、アザレアの紅茶色の瞳が輝いた。
「まあ」
身を乗り出し、アリスを覗き込む。
「本当に小さいわね、ルーシー」
「もとの大きさに戻るクッキーをください」
アリスはポケットの縁へ両手をかけ、必死に訴えた。
「このままでは困ります」
「そうでしょうね」
「では、早く――」
「でも、とても可愛いわ」
アリスは固まった。
「……え?」
「もう少し、その姿でいなさい」
「困ります!」
大きな声を出したつもりだったが、鈴のように響くだけだった。
それがさらにアザレアを喜ばせる。
「声まで小さいのね」
「アザレア様」
ガルが低く呼んだ。
「大きくなるクッキーは、どこですか」
「内緒」
「アザレア様」
「そんなに怖い顔をしても駄目よ。白兎ほど怖くないもの」
アザレアは涼しい顔で紅茶を飲んだ。
「送ってくださったクッキーのおかげで、女王陛下から隠れることができました」
アリスはできるだけ落ち着いて言った。
「そのことは、ありがとうございます。でも、どうして最初から説明してくださらなかったんですか?」
「母様が執務室へ向かっていると知ったのは、ほんの少し前だったの。長々と事情を書いている時間なんてなかったわ」
「では、元に戻るクッキーも一緒に送ってくだされば……」
「それでは、つまらないでしょう?」
「……つまらない?」
「そうよ」
アザレアは満足そうに頷いた。
助けてくれたことは間違いない。
けれど、その後のことは完全に面白がっている。
「今のルーシーさんを、このままにしておくことはできません」
ガルが言った。
「危険です」
「あなたが守ればよいでしょう」
アザレアの口元に、意地の悪い笑みが浮かぶ。
「ちょうどいいではないの。白兎から、近づくなと言われているのでしょう?」
ガルの表情が強張った。
アリスも息を呑む。
「なぜ、それを……」
「母様の城には、耳も目もたくさんあるのよ」
アザレアは椅子から立ち上がった。
葡萄色のドレスの裾が、薔薇の影の上を滑る。
「小さいルーシー。今のうちに、普段は見えないものを見ておきなさい」
「普段は見えないもの?」
「大きい時には、見落としてしまうものよ」
それだけ告げると、アザレアは背を向けた。
「待ってください」
「大きくなるクッキーは、まだ渡さないわ」
「まだ!?」
「少しくらい、小さな世界を楽しみなさい」
「楽しめません!」
アザレアは肩越しに振り返り、意地悪そうに笑った。
「せいぜい花ネズミに、種と間違われないよう気をつけることね」
「冗談ですよね?」
「さあ?」
鮮やかなピンク色の髪を揺らしながら、アザレアは薔薇の小道へ消えていった。
残されたアリスとガルは、しばらく何も言えなかった。
風が吹き、赤い花びらが一枚、ガルの肩へ落ちる。
「……困りましたね」
「ええ」
ガルも重く答える。
「非常に困りました」
「大きくなるクッキーは、ほかでは手に入らないんですか?」
「作っている菓子職人は非常に気まぐれで、城の厨房にも常備されていません。アザレア様から受け取るのが、一番早いでしょう」
「そうですか……」
アリスは肩を落とした。
助けたいのか、からかいたいのか、何かを試しているのか。
おそらく、そのすべてなのだろう。
けれど、いつまでもこのままではいられない。
「あの、ガルさん」
「はい」
「やっぱり、ノアのところへ戻ります」
ガルの青い瞳が、アリスへ向けられた。
「なぜですか?」
「あの時、ガルさんへ助けを求めたことを、間違いだったとは思っていません」
アリスはポケットの縁を握った。
「でも、すぐには元へ戻れないと分かった以上、このまま二人だけで動き続ければ、ガルさんの立場まで悪くしてしまいます」
あの日のノアの冷たい声が、胸の奥に蘇る。
『僕の許可なく、彼女へ近づかないで』
その言葉に従うつもりはない。
けれど、元へ戻る見通しもないままガルと行動を続ければ、今度こそ彼が命令に背いたと見なされてしまう。
「ノアのところへ戻ったら、私から説明します」
「あなたが?」
ガルは少し黙って何かを考えた後、静かに口を開いた。
「それでは、執務室まで私がお連れします。その後は、二人で事情を話しましょう」
「二人で?」
「あなたが私へ助けを求めたのなら、私は助けたことを隠しません。今回の判断が間違っていたとも思っていません」
静かな声だった。
けれど、そこには確かな意志があった。
ガルもまた、ノアの言葉へただ従うのではなく、自分で選ぼうとしている。
アリスはしばらくガルを見つめ、やがて頷いた。
「分かりました。一緒に戻りましょう」
「はい」
「ノアが怒ったら、私もきちんと話します。ガルさんだけを怒らせません」
ガルの目元が、ほんの少しだけやわらいだ。
「心強いです」
ガルは上着の胸ポケットを少し広げた。
「中へ入ってください」
アリスはポケットへ戻る前に、もう一度ガルを見上げた。
「ガルさん」
「何でしょう」
「ノアがまた、あの日のようなことを言っても、すべて本心だとは思わないでください」
ガルの青い瞳が、静かに揺れた。
「ノアは、大切なものほど遠ざけようとする人だから」
自分で口にして、胸が少し痛んだ。
ガルだけではない。
アリス自身も、同じように遠ざけられているのかもしれない。
守るために。
失わないために。
けれど、そんなやり方を続けていれば、いつか本当に誰もいなくなってしまう。
アリスは言った。
「きっと、伝わるはずです」
ガルはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「分かりました」
アリスは胸ポケットの中へ戻った。
ガルが外から布を整え、姿が見えないようにしてくれる。
「苦しくありませんか」
「大丈夫です」
ガルは赤薔薇の小庭を後にした。
城の廊下を進む足音が、ポケット越しに静かに響く。
ノアの執務室へ戻る。
今度は、隠さずに事情を話す。
ガルと一緒に。
ノアはきっと怒るだろう。
それでも、逃げてはいけない。
アリスは小さな胸へ手を置いた。
怒ってもいい。
怖い顔をしてもいい。
けれど、今度こそ自分の言葉で伝えよう。
ガルへ助けを求めたのは、自分の意志だったこと。
ガルは何も悪くないこと。
そして、誰かを守るために遠ざけることが、いつも正しいわけではないこと。
きっと、伝わるはずだ。
そう信じながら、アリスは胸ポケットの中で、そっと顔を上げた。