16話:星海に還る日
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
二人が去った後のナザルの小屋には、消えかけの暖炉が発する爆ぜるようなパチパチという音だけが、不規則なリズムで響いていた。安楽椅子に深く体を預けたナザルは、肺の奥に溜まっていた熱をすべて吐き出すように、ふぅ、と長く、震える息を吐く。「なんとか……持ってくれたか……」
本文
二人が去った後のナザルの小屋には、消えかけの暖炉が発する爆ぜるようなパチパチという音だけが、不規則なリズムで響いていた。
安楽椅子に深く体を預けたナザルは、肺の奥に溜まっていた熱をすべて吐き出すように、ふぅ、と長く、震える息を吐く。
「なんとか……持ってくれたか……」
その声には、先ほどまで弟子たちを圧倒していた威厳も、活気に満ちた怒鳴り声も、一欠片すら残っていなかった。掠れて消え入りそうな、ただの弱々しい老人の独り言である。 先刻見せたあの覇気は、消えゆく蝋燭が最後に放つ、一瞬の強烈な輝きに過ぎなかった。ナザルは、自らの命の核であった魔力が、残り火のような熱を失い、冷たい静寂へと溶けていくのを確かな感覚として受け止めていた。
視界がゆっくりとセピア色に染まり、ナザルの意識は奔流となって過去へと遡っていく。
それはまだ、夢と希望という名の光に満ちていた若き日の記憶だ。王都の魔法大学の学舎で、仲間たちと夜通し魔導理論を戦わせ、競い、笑いながら過ごしたあの日。卒業の日、二級魔導士という一人前の証を授かり、胸を張って王都の街を歩いた高揚感。
仲間たちと挑んだ迷宮、その地下深く。
死の淵を彷徨った末に見つけ出した黄金の腕輪を掲げ、皆で泥まみれになって抱き合って喜んだ震えるような歓喜。
王宮魔導院に席を置いた際、自分が歴史の一端を担うのだと信じて疑わなかった栄光。
しかし、記憶の輝きは次第に陰りを見せ、挫折と悔恨の泥濘へと変わっていく。
指導する立場になった頃に出会った、一人の少年がいた。
偶然にも魔力を持って生まれた平民の子。
教えれば教えるほど、その才覚は王都の貴族階級の嫡男たちを凌駕していった。
「この子は、停滞したこの国を変える大魔導士になる」 ナザルは確信し、その少年のために奔走した。だが、王宮の壁は、血筋という呪縛は、あまりに強固だった。
「彼の才能は本物です!魔導士の資格取得が認められないとはどういう事ですか!?」
まだ血気盛んだった頃のナザルが上官に詰め寄るも、上官は葉巻の煙を吹きつけ冷たい目をするだけだった。
「平民だからだ」――その一言と、香水と葉巻の匂いだけが、今も鮮明に耳の奥にこびりついている。
土砂降りの雨の中、少年は傘もささずナザルに背を向け俯いて立っていた。
その足元には、愛杖が真っ二つに折れて転がっている。
『私には、夢を見る資格すらなかったんですね……』
そう呟き、ずぶ濡れのまま、去っていく少年の背中。
そんな悲劇が、何度も、何度も繰り返された。 ナザルは次第に「諦めること」を処世術として覚え、自らも牙を抜かれていった。魔導院の中で煙たがられるだけの老いぼれとなり、鏡に映る自分の魔力が、枯れ井戸のように細っていくのを自覚したとき、情熱は完全に死に絶えた。 金のために働き、空虚な栄光に縋り、やがて杖を置く決心をした。長年連れ添い、死線を共にしてきた使い魔とも、自らの終わりを見せたくなくて契約を解除した。 コタンという最果ての町に流れ着いたのは、魔法とも、喧騒とも、そして「希望」という呪いとも無縁な場所で、孤独に朽ち果てるためだった。
『ジジイー!!魔法教えろー!!』『おっ、お願いします!!』
そこに、嵐のように現れたのが、あの二人だった。
態度は不遜で口は悪いが、誰よりも強く明日を信じているシュドー。
繊細で泣き虫だが、その大きな体の中に無限の可能性を秘めたメルティ。
修行の日々の中で、ナザルの脳裏を幾度も冷ややかな思いがよぎった。
「また無駄になるのではないか。この子たちも、あの日の少年と同じ絶望を味わうだけではないのか」
しかし、運命は『大異変』を境に、劇的な転換期を迎えた。
世界が変わり、歴史が動き、平民が魔法を掴み取る時代が到来した。
ナザルは震える手で、自らの運命の手綱を握り直した。
「これが、わしの最後の仕事だ!!」
老いた体に鞭打ち、 残り滓になった魔力を、絞り出すような知識を、人生のすべてを、惜しみなく二人へと注ぎ込んだ。
そして今日、その仕事は成し遂げられた。
「……何も変えられず、何も成し得なかった……そう思っておったが……」
窓から差し込む月光に、ナザルの口元が微かに、満足げな笑みの形に歪む。
「最後に、大仕事が出来たわい……。わしにしては、上出来……。
最高に……面白い、人生じゃった……」
霞む視界の先。瞼の裏に、かつての出会った日の、汚れた顔で睨みつけてきたクソガキのシュドーと、泣きべそをかいていたメルティの姿が浮かぶ。
そして次の瞬間、その姿は、自らの魂から芽吹いた杖を握りしめ、凛として立つ魔導士の卵へと重なった。
ナザルは、すべての工程を完璧に終えた職人のような、穏やかで誇らしい顔のまま、ゆっくりと瞼を閉じた。
暖炉の炎が、最後の小さな火花を散らして、静かに、優しく消えた。
◆
「――っ!」
ナザルの家からの帰り道、月明かりに照らされた坂道で、メルティが唐突に足を止めた。 「どうした、メルティ?」 隣を歩くシュドーが足を止める。だが、メルティは答えず、ただ吸い込まれるような深藍の夜空を見上げていた。
シュドーも訝しげに空を仰ぐ。そこには、数え切れないほどの星々が瞬いていた。
その刹那。
無数の星の一つが、尾を引いて長い軌跡を描き、水平線の彼方へと流れ落ちた。
サァァ…
優しく、けれどどこか寂しげな風が吹き抜け、二人の髪を、そして真新しい杖をそっと撫でて馴染のある薬草の匂いと共に通り過ぎる。
「…………ジジイ?」
シュドーが小さく、消えそうな声で呟いた。
それは理論でも理屈でもない、魔導士として目覚めたばかりの二人が感じ取った、魂の直感だった。
シュドーは握りしめた金の腕輪と新しい杖の重みを、今まで以上に強く、重く感じていた。
その夜、一人の老魔導士の魂が、星の海へと静かに還っていった。