第二章 名乗らぬ子②
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田。 型どおりの教え方にすがる気弱な仮教員・宮田誠一は、生徒一人ひとりの事情に触れるうち、手本だけでは掬えないものがあると知る。 元寺子屋の女師匠・いねの見守りを受けながら、迷いながらも、自分なりの「教える」を探し始める。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
二 炭屋の路地
炭屋は、学校から二筋ばかり東の、角の店だった。間口に空の炭俵が積んであり、軒下の古い看板には、屋号の字だけが黒々とあって、大野の字は、どこにもなかった。
夏の入りに炭屋の払いとは間の抜けた取り合わせだが、冬のあいだ教場の火鉢を賄ってくれた掛けが、たしかに残っていた。
「へい、いらっしゃい――おっと、こりゃ易知の先生じゃねえか」
帳場から飛び出してきたのは、腹掛けに股引の、声の大きな男だった。日に灼けた顔に、留吉の面影がそのまま乗っている。
「学校の、炭の払いに上がりました。遅くなりまして」
「なんの、なんの。うちの留が、いつもお世話になっておりやす」
店の奥は薄暗く、夏だというのに、そこだけ冬の匂いがした。炭というのは、焚かずとも、黒々と積んであるだけで匂うものであるらしい。
男は勘定を検めると、受け取りを書くと言って帳場の筆を取った。屋号を書き、日付を書き、名前のところまで来て、筆が止まった。
「……いけねえ」
ばつが悪そうに笑って、書きかけの字の横へ、あらためて、大野、と書き足した。炭屋、と先に書いてしまったのである。
「面目ねえ、癖でしてね。あっしらの代になって、急に苗字を名乗れとお達しが来たんだが、こいつがどうにも身につかねえ」
「大野という字は、どなたが」
「戸長〈こちょう〉さんでさあ。なんでもいいから付けろと言われたって、こちとら思案のしようがねえ。そしたら戸長さんが、大きい野っ原で大野、景気がよくていいだろうって。へへ、それだけの謂れでね」
男は、からからと笑った。恥じている風でも、悔いている風でもない。ただ、大野さんなんて呼ばれると、いまだにどこの旦那のことかと思いまさあ――そう言って、また笑った。
「うちじゃ、誰も大野なんて呼びやしませんや。留は留、あっしはあっし、それで用が足りまさあ。……役所と学校の帳面の上でだけ、あっしらは大野なんで」
嫌味のかけらもない言い方だった。誠一は、笑いそこねた。宮田の二字も、似たような生まれである。
店の裏手から、炭俵を担いだ留吉が出てきた。肩に俵を載せ、腰で調子を取って、土間へどさりと下ろす。年の割に、堂に入った足取りだった。教場で筆を持っているときの、あの手持ち無沙汰な様子とは、まるで別の子である。
留吉は誠一に気づくと、ぎょっとした顔になった。
「……せんせい」
「ああ。炭の払いに来た。……邪魔をしたな」
それ以上は、何も言わなかった。言うべき文句――姓の字も書けるように、おさらいをしておきなさい――は喉の奥に用意してあったのだが、炭埃で黒くなった留吉の顔を前にすると、教場の文句は、よその土地の言葉のように思われた。
夜、下宿の行灯の下で、誠一は手控えの帳面を開いた。明日の手順を書き写す、いつもの晩の支度である。
その隅に、ためしに、宮田誠一、と書いてみた。
一度、二度、三度。留吉に教えたのと同じ調子で、宮に田、と口の中で唱えながら書いた。何度書いても、宮の字の屋根の下に、まだ誰も住んでいないような、そんな心地が抜けなかった。父が届けを出してから、もう一年余りになる。月謝帳に、書き付けに、この姓を書いた数なら、町内の誰にも引けを取らぬはずだった。書き慣れることと、馴染むことは、どうやら別の勘定であるらしい。
文箱の底には、まつの除籍の、書きかけの届けが仕舞われたままである。あの晩から、帳面の仕事がひとつ増えた気がしている。規則の字引には、載っていない仕事である。
手控えの新しい頁に、留吉、と書きかけて、やめた。明日どう諭すか、手順を書き付けておくつもりだった。だが、諭す文句を思案するそばから、炭俵を担いだあの足取りと、受け取りに屋号を書いてしまう父親の笑い声が、文句のほうを追い越していくのだった。
いずれ講習所の講習を受け、考査に通れば、仮教員の「仮」の字が取れる。そうすれば、宮田先生という呼び名にも、いつか、ちゃんと中身が入るのだろうか。
行灯の油が尽きかけて、じじ、と鳴った。誠一は筆を洗い、隅の書き散らしを破りもせず、そのまま帳面を閉じた。
翌る朝の出欠でも、大野、と呼んでから留吉の返事までには、やはりひと呼吸あった。笑う者は、昨日ほどはいなかった。子供らのからかいには日和のようなものがあって、囃し立てる日もあれば、見向きもしない日もあるのである。
手習いになって、誠一は机の間を回った。まつの字は今日もつましく隅に寄り、頬を墨にした子は、今日は手の甲を黒くしていた。そうして留吉の前まで来ると、半紙は、やはり上のほうが白かった。書き慣れた名の二字だけが、下のほうに所在なげに据わっている。
書きなさい、と言うのは易しい。昨日も言った。決まりの文句は口が覚えているから、思案も要らない。だがその先の手順は、昨夜どれだけ行灯を灯していても、手控えの頁に書けなかったのだった。
誠一は、余っていた半紙を一枚取って、留吉の横に膝をついた。
留吉が、身構えるように尻を引いた。叱られると思ったのだろう。近くの子らも、筆を持ったまま、横目でこちらを窺っている。誠一は何も言わずに、留吉の硯を、すこし借りますよ、という手つきで引き寄せた。墨は、たっぷりと磨ってある。昨日も今日も、磨るだけは磨るのである。
筆を下ろして、書いた。
宮田誠一。
近くの机が、しんとした。先生が生徒の紙へ手ずから己の名を書くなど、手本のどこにもない振る舞いである。留吉は、半紙と誠一の顔とを、二度ばかり見比べた。
「私の姓も、去年できたばかりだ」
誠一は、筆を置いて言った。
「父が、役所で決めてきた。謂れも何もない。……書くたびに、いまだに、よその名のような気がしている」
「……せんせいもかい」
「ああ」
「……せんせいのうちは、なに屋なんだい」
「何屋でもない。屋号も、なかった。だから宮田になる前は、私は、ただの誠一だ」
留吉は、しばらく黙って、机の隅の四文字を眺めていた。それから、探るような上目づかいで訊いた。
「よその名みてえなのは、いつ直るんだい」
「分からん。……分からんが」
うまい言葉は、やはり出てこなかった。用意の文句を捨ててきた身には、めくる頁がない。
「じきに馴染む、と思って、私は書いている。……それに君のは、私のより、よほど景気のいい字だ。大きい野っ原だ」
「……戸長さんの見立てだぜ」
「良い見立てだ」
留吉は、ふん、と鼻を鳴らした。鳴らしてから、筆にたっぷりと墨を含ませて、半紙の白いところへ、埒外に大きな二字を書いた。
大野。
留吉、の二字が窮屈になるほどの、不格好な大野だった。誠一は、よし、とだけ言った。よし、のほかに何か言うと、余計になりそうだった。
その半紙は、その日のうちに、教場の壁へ貼り足された。習いたての姓名の並びが、これで一枚も欠けずに揃ったわけである。留吉のそれは、遠目にもすぐに知れた。姓の二字が、隣近所より、ふたまわりも大きかったのである。
帰りぎわ、壁を見上げて、いね先生が言った。
「たいした看板だねえ」
炭屋の、とは言わなかった。
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