第5話 ミリア発見
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あらすじ
<p> その時、通路の奥から小さな音がした。</p><p> 石を引っかくような音だった。魔物の足音ではない。ゴブリンはもっと騒々しい。虫ならもっと湿った音がする。これは、誰かが声を出さないように息を殺し、それでも体が動いてしまった時の音だ。</p><p> わたしは短剣を握り直した。</p>
本文
その時、通路の奥から小さな音がした。
石を引っかくような音だった。魔物の足音ではない。ゴブリンはもっと騒々しい。虫ならもっと湿った音がする。これは、誰かが声を出さないように息を殺し、それでも体が動いてしまった時の音だ。
わたしは短剣を握り直した。
「まだいるのか」
ガントが呻いた。肩を押さえたまま、顔だけは偉そうである。怪我をしても態度が太いのは一つの才能だが、役には立たない。
「お前の仲間か」
「知らねえよ」
「知らないなら黙っていろ」
わたしは通路の奥へ一歩進んだ。
青白い苔の光が、壁の凹凸を弱く照らしている。さっきの罠で落ちた鉄槍が床に刺さり、ゴブリンの体が転がり、焦げたような臭いと血の臭いが混ざっていた。その奥、崩れかけた石壁の影に、白いものが見えた。
最初は布かと思った。
だが、布が震えるはずはない。
「出てこい」
わたしが言うと、白いものがびくりと動いた。
返事はない。
「魔物なら斬る。人なら名を言え」
我ながら親切な言い方ではない。だが、迷宮で長々と挨拶をするほど暇でもない。短くて分かりやすい方がよい。
少し間があって、かすれた声がした。
「助けて、ください」
振り向くと、壁際に白い服の少女が座り込んでいた。年はわたしと同じくらいか、少し下か。白銀の髪が薄暗い光を受けて、月の糸みたいに見える。胸元には教会の紋章。手には折れた杖。足を怪我しているらしく、立てないようだった。
顔色は悪い。唇も乾いている。だが目だけは、まだこちらを見ていた。怖がっているのに、目を閉じていない。泣くのを我慢している子供の目だ。わたしはそういう目を知っている。昔、マーサが死んだ夜、鏡の中に同じものがあった。
「名前は」
すぐ聞こうとして、ガントの仲間が舌打ちした。
「ちっ、教会の荷物か。面倒だ。置いていこうぜ」
わたしはそいつを見た。
「今、何と言った」
「だから、置いて」
最後まで言わせなかった。
わたしの拳が男の腹に入った。男は変な声を出して膝をついた。
拳を入れた瞬間、少しだけ気分が晴れた。暴力はいけないと父はよく言ったが、言葉を最後まで聞く価値のない相手も世の中にはいる。怪我人を荷物と呼ぶような口は、腹を押さえて黙っているくらいでちょうどいい。
「怪我人を置いていく奴は、荷物より役に立たない」
白い少女が目を丸くしている。
驚かれるほどのことを言ったつもりはない。迷宮で怪我人を見つけた。置いていけば死ぬ。なら連れて帰る。それだけだ。これを立派なことのように扱われると、世の中の普通がずいぶん曲がっているようで腹が立つ。
わたしは外套を脱いで、少女の肩にかけた。
マーサの外套である。床は冷たい。少女の肩は細い。外套をかけた時、彼女は一瞬だけ布を握った。握る力が弱かった。こんな手で杖を持って、迷宮に立っていたのかと思うと、さらに腹が立った。
「名前は」
「ミリア、です」
「そうか。わたしはルカだ」
「ルカ、さん」
ミリアはわたしの名を、確かめるように呼んだ。まるで名前を呼んだら、目の前の人間が消えないと確かめているみたいだった。
「歩けるか」
「少しなら」
少し。
この場合の少しは、たいてい本当に少しである。わたしは膝をついて、ミリアの足を見た。足首が腫れている。血は止まっているが、歩けば痛むだろう。
「なら少し歩け。無理なら背負う」
ミリアは泣きそうな顔で頷いた。
ガントたちは何も言わなかった。言えば殴られると学んだのだろう。教育の成果が早く出るのはよいことだ。
わたしは落とした短剣の柄を拾い、腰に戻した。ゴブリンの魔石を袋に入れる。金になるものは拾う。怪我人も拾う。迷宮では拾うものが多い。
ミリアが立とうとした。
一歩。
顔が歪む。
二歩。
杖の折れた先が石床を滑った。
三歩目で、彼女の膝が崩れた。
わたしは腕を伸ばして支えた。軽い。軽すぎる。
「背負う」
「でも」
「でもではない」
わたしは背を向けた。ミリアは少し迷ってから、おずおずと腕を回した。遠慮しているのか、ほとんど体重を預けない。そんなことをされると余計に歩きにくい。
「落ちたいのか」
「い、いえ」
「ならしっかり掴まれ」
背中に、ようやく彼女の重みが乗った。
ガントが舌打ちした。
「そんなの背負って帰る気かよ」
「そうだ」
「足が遅くなる」
「お前の頭よりは軽い」
「何だと」
「中身がない分、軽いかもしれない」
ガントの仲間が少し笑いかけて、すぐに口を閉じた。賢い。今笑うと、あとでガントに睨まれる。わたしにも睨まれる。両方から睨まれて得をする者はいない。
背中のミリアが小さく震えた。
泣いているのかと思ったが、違った。笑いをこらえているらしい。こんな場所で笑うとは、なかなか見込みがある。
「笑うと揺れる」
「す、すみません」
「謝ることではない」
わたしは歩き出した。
ミリアは本当に軽かった。だが、ただ軽いだけではない。背中に人の体温がある。腕が首の前で遠慮がちに結ばれている。息が耳の近くにかかる。ひとりで歩く時とは違う。少し歩幅を考えなければならない。段差を踏む前に、背中の相手の痛みを想像しなければならない。
面倒だ。
だが、不思議と嫌ではなかった。
マーサが昔、わたしを背負ってくれたことを思い出した。熱を出した時だ。わたしは背中で暴れたらしい。覚えていない。マーサは笑って「お嬢さまは熱があっても真っ直ぐです」と言った。熱があって真っ直ぐなら、たぶんただの迷惑である。
今のミリアは暴れない。むしろ静かすぎる。こんなに静かな怪我人はよくない。痛いなら痛いと言えばいい。怖いなら怖いと言えばいい。言わないまま我慢する癖は、あとで人を曲げる。
「痛ければ言え」
「はい」
「我慢しても得はない」
「……はい」
少し間があった。
その間に、何か言いかけて飲み込んだのが分かった。教会では、きっと我慢が得だと教えられたのだろう。実に腹立たしい教育である。
「さっきの、見ていたのか」
わたしは歩きながら聞いた。
「何を、ですか」
「ガントがわたしを押したところだ」
背中のミリアが、少しだけ息を止めた。
「……はい」
「なら、あとで証言しろ」
「私が、ですか」
「他に誰がいる」
「でも、私なんかが」
「私なんか、ではない。見た者が言う。それだけだ」
ミリアはしばらく黙った。背中越しに、彼女が折れた杖を握りしめる気配がした。
「言えるかどうか、分かりません」
「分からないなら、帰ってから決めろ」
「はい」
その返事は弱かったが、消えてはいなかった。
迷宮に入ってまだ一時間も経っていない。
銀貨は減った。肩は痛い。腹は減ったままだ。卑怯者には会った。罠も踏みかけた。魔物も出た。怪我人も拾った。
なるほど。
迷宮都市というのは、なかなか忙しい場所である。
だが、悪くない。
少なくとも、あの家よりはずっといい。
ここでは、嘘をつく奴は殴れる。魔物は正面から来る。宝は地下にある。飯は地上にある。そして今、わたしの背中には、置き去りにしてはいけない少女が一人いる。
帰る理由はない。
進む理由なら、もう十分あった。
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