第7話 帰路のクロウラー
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p> わたしたちは来た道を戻った。</p><p> 迷宮の一階層は、道さえ覚えればそれほど複雑ではない。問題は道ではなく、道にいるものだ。角を曲がるたびに、何かがいる気がする。いる気がするだけならいいが、大抵本当にいる。</p><p> 背中のミリアは、時々小さく息を呑んだ。</p>
本文
わたしたちは来た道を戻った。
迷宮の一階層は、道さえ覚えればそれほど複雑ではない。問題は道ではなく、道にいるものだ。角を曲がるたびに、何かがいる気がする。いる気がするだけならいいが、大抵本当にいる。
背中のミリアは、時々小さく息を呑んだ。
足が痛むのだろう。揺らさないように歩いているつもりだが、迷宮の床は親切ではない。石畳は欠け、ところどころ湿って滑りやすい。階段でもないのに急に段差があり、段差でもないのに足を取る溝がある。迷宮というものは、歩く者の足首に恨みでもあるのかもしれない。
少し進んだところで、床を這う大きな虫が三匹出た。
胴は腕ほどの太さ。殻は黒く、足が多い。多すぎる。あれほど足があるなら、一本くらい貸してくれてもよさそうなものだ。
「クロウラーです」
背中のミリアが言った。
「食えるか」
「食べる人もいるそうですが、おすすめしません」
「なら邪魔だ」
わたしはミリアを壁際に下ろした。
下ろす時、彼女の顔が少し歪んだ。足首に響いたのだろう。だが声は出さなかった。さっき、痛いなら言えと言ったばかりである。あとでもう一度言う必要がありそうだ。
「動くな」
「はい」
短剣を抜く。刃こぼれはしているが、虫の足を払うには十分だ。向こうは三匹。こちらは一人。数だけ見れば不利だが、虫に数を誇られても困る。
クロウラーは低く体を揺らした。
気味が悪い。ゴブリンの方がまだ分かりやすい。あれはうるさくて臭くて刃物を持っている。敵として単純だ。虫は表情がない。どこを見ているのかも分からない。足が多すぎるせいで、次にどちらへ動くのかも読みにくい。
一匹目が跳ねた。
意外に速い。わたしは身をひねって避け、腹の柔らかいところへ短剣を突き込んだ。嫌な音がした。緑色の汁が飛ぶ。外套をミリアにかけておいてよかった。マーサの縫ってくれた外套に虫の汁が付いたら、迷宮の壁を全部削ってでも拭き取りたくなる。
二匹目が足に絡みつこうとした。
わたしは石床を蹴り、そいつの頭を踏んだ。殻が割れた。靴底に嫌な感触が残る。あとで洗いたい。水場があればよいが、迷宮の水を信用していいかは分からない。
三匹目は、こちらではなくミリアの方へ向かった。
よくない。
「そっちは駄目だ」
わたしは床に落ちていたガントの短槍を拾い、投げた。
短槍は虫の胴を貫いて壁に刺さった。思ったよりよく飛んだ。ガントを見ると、口を開けている。
「返してほしいか」
「いや」
「そうか」
ガントは短槍を惜しむより、わたしが投げたことに驚いているようだった。自分の武器を他人にうまく使われるのは、どんな気分なのだろう。わたしなら少し腹が立つ。だが、今のガントに腹を立てる資格はあまりない。
戦いが終わると、ミリアがふらつきながら立ち上がった。
「あの、傷を」
「わたしか」
「はい。肩から血が」
「虫の汁かもしれない」
「血です」
断定された。
ミリアは折れた杖を胸に抱え、目を伏せた。
「杖は折れていますが、簡単な治癒ならできます。少し、じっとしていてください」
「できるのか」
「はい。役立たずでは、ありませんから」
その声が小さく震えていた。
ガントの言葉が刺さっているのだろう。役立たず。便利な悪口だ。相手を全部まとめて捨てることができる。言った方はすぐ忘れるが、言われた方はなかなか忘れない。
わたしはガントを見た。ガントはまた目をそらした。よくそらす男である。そのうち首が横向きに固まるかもしれない。
ミリアはわたしの肩に手を当てた。
白い光が灯る。
温かい。
傷口がむずむずした。痛みが引いていく。完全に塞がるわけではないが、血は止まった。腕を回してみる。動く。便利だ。いや、便利と言うとまた怒られるかもしれない。まだ怒られるほど親しくはないが、言葉は選んだ方がいい。
「助かった」
「いえ。こちらこそ」
「腹は減っているか」
「え?」
「治癒を使うと腹が減るのか」
「少し」
「なら帰ったら飯だ」
ミリアは目を瞬いたあと、小さく笑った。
「はい」
その笑い方は、泣くより頼りなかった。だが、泣くよりはいい。
わたしはもう一度ミリアを背負った。
今度は、さっきより少し素直に体重を預けてきた。ほんの少しだが、違いは分かる。人間は一度に変わらない。だが、三歩しか歩けなかった者が、背負われる時に少し力を抜く。それだけでも進歩である。
ガントが肩を押さえながら、クロウラーの死骸を見た。
「魔石は」
「あとで取る」
「虫の素材も売れるぞ」
「詳しいな」
「迷宮に何度も入ってるからな」
それを誇るなら、新人を罠に押す前に別のことを覚えればよかったのに、と思った。口には出さなかった。言うと長くなるし、今はミリアを背負っている。
ガントの仲間の一人が、恐る恐るクロウラーへ近づいた。殻を剥がそうとして、緑の汁に顔をしかめる。
「臭え」
「ならやめろ」
「でも金になる」
「金は大事だ」
わたしがそう言うと、男は妙な顔をした。わたしが金の大事さを認めると思っていなかったらしい。正義だけで飯は食えない。卑怯は嫌いだが、報酬は好きだ。そこは曲げる気がない。
ミリアが背中で言った。
「クロウラーの殻は、薬の器にも使われます」
「そうなのか」
「はい。毒を通しにくいので」
「詳しいな」
「教会で、少しだけ」
ミリアの声はそこで小さくなった。教会の話になると、彼女はすぐ自分の声を畳む。畳まなくていいのに、畳む癖がついている。
「地上に戻ったら、そういうことも教えろ」
「私が、ですか」
「わたしは知らない」
「でも、役に」
「今の話は役に立った」
ミリアは黙った。
役に立ったと言われ慣れていない者は、返事が遅い。シオンもそうだった。エリスもたぶん、別の形でそうだろう。人は案外、自分の値打ちに鈍い。
「ルカさん」
「何だ」
「帰ったら、本当に飯を食べてもいいのでしょうか」
「食え」
「私、お金を」
「あとで考える」
「でも」
「飯を食ってから考えた方が、考えは真っ直ぐになる」
ミリアは背中で黙った。
少しして、かすかな声で言った。
「真っ直ぐ、ですか」
「そうだ」
「いい言葉ですね」
いい言葉だ。
マーサがくれた言葉である。
わたしは短く頷いて、出口へ向かった。
帰り道の途中で、もう一度だけ魔物の気配がした。
小さな影が壁の穴からこちらを覗き、すぐに引っ込む。ゴブリンか、別の小物か。追っては来なかった。こちらが怪我人連れでも、ガントたちがいても、クロウラーの臭いが残っていても、近づく価値はないと判断したのだろう。魔物にも考える頭はあるらしい。
「今のは?」
ミリアが聞いた。
「見物だ」
「魔物も見物するんですか」
「たぶん、こっちを変な一団だと思ったんだろう」
「変、ですか」
「怪我人を背負った新人と、罠に引っかかった先輩と、虫の汁まみれの通路だ。わたしなら近づかない」
ミリアがまた少し笑った。
笑い方が、最初よりほんの少しだけ人間らしくなっていた。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。