第三章 隣の師匠①
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田。 型どおりの教え方にすがる気弱な仮教員・宮田誠一は、生徒一人ひとりの事情に触れるうち、手本だけでは掬えないものがあると知る。 元寺子屋の女師匠・いねの見守りを受けながら、迷いながらも、自分なりの「教える」を探し始める。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
一 迷い子
朝から、蝉の鳴きどおしの日だった。
教場の障子を残らず開け放しても、風より先に蝉の声が入ってくる。手習いの刻限になると、それに子供らの熱気が加わって、墨のにおいまで汗ばんで感じられた。
誠一は机の間を回った。まつの字は、今日も半紙の隅につましく寄っていたが、近頃は寄り方にも行儀が出て、列の頭が揃うようになった。留吉の半紙は相変わらず上から下まで黒々として、姓名の四字だけが埒外に大きい。朝の出欠で、大野、と呼んでから返事までの間も、いまはもう、ほかの子と変わらない。
「せんせい、墨が乾いちまった」
「え、ええ。硯に水を、少しだけ……ああ、こぼさぬように」
言ううちに水差しが傾いて、隣の子の半紙まで濡らした。教場がどっと笑い、濡らした当人まで笑うので、叱る間がない。手を叩いて静まらせるのに、誠一は今日も、ひと呼吸ぶん遅れた。
手本のとおりに、と言って回る。言いながら、朱の直しを入れる。それで手習いの刻限は事足りる。少なくとも、教則の上では。
昼になると、いね先生が土瓶を提げて職員室に入ってきた。
「麦湯をおあがりよ。宮田先生は、夏に強くないんだから」
誰がそう決めたのかは知らないが、否やを言うより先に湯呑みが置かれるので、誠一はいつも頂戴している。麦湯は、井戸で冷やしてあった。
「そういえばさ」
自分の湯呑みに注ぎながら、いね先生が言った。
「隣町の長屋に、手習いの師匠が居着いてるんだとさ。御一新前からの人じゃなくて、二年だか三年だか前に、ふらりと越してきた口だって」
「私塾ですか」
誠一は、湯呑みを持ったまま少し考えた。
「学校が、ありますのに」
「あるのにさ」
いね先生は麦湯をひと口啜って、目を細めた。
「うちだって、つい此間まで寺子屋だったんだけどねえ」
返す言葉に詰まって、誠一は麦湯を飲んだ。
「なんでも、束脩〈そくしゅう〉は取れるだけでいいって構えらしくてさ。月謝の重い家には、ありがたがられてるんだと」
いね先生の言いようは、学校の肩を持つでも、その師匠の肩を持つでもなかった。月謝の重い家、の一言の先には、まつの顔がある。誠一は、頷きの置きどころを探しているうちに、頷きそこねた。
話はそれきりで、午後は算術の刻限になり、夕方には、そんな噂を聞いたことも忘れていた。
思い出すことになったのは、その日の帰りである。
紙屋に半紙の仕入れを頼んだ帰り道、堀端の柳の下に、子供がひとり、立っていた。五つか六つの男児である。風呂敷包みを胸に抱え、口を真一文字に結んで、行き交う大人の脚ばかり見上げている。遊んでいる立ち方では、なかった。
「どうした」
しゃがんで目の高さを合わせると、男児は一歩下がった。
「家の者と、はぐれたか」
首が、横に振れる。
「帰る道が、わからないか」
こんどは、縦に振れた。
ここまでは、よかった。
「家は、どこだ」
「……せんせいのとこ」
「先生。学校か」
ちがう、と首が振れる。せんせいのとこ、と男児は同じ言葉を繰り返した。それきり、口が固い。
「父つぁんの名は、何という」
「……ちゃん」
これは、訊き方が悪かった。
「住まいの町の名は」
男児はしばらく思案して、負けず嫌いの目で誠一を見上げると、
「せんせいのとこの、そば」
と言った。
「では、その先生の名は」
男児は、これには胸を張った。
「ししょう」
「師匠という名の人は、いない。……いや、いるのかもしれんが」
埒が明かない、という言葉の、見本のようなやり取りである。
こういうときの手順なら、心得ている。迷子は戸長のところへ連れて行き、触れを回してもらうのが筋である。誠一が手を引いて歩き出すと、男児の足は目に見えて重くなった。戸長、と聞こえた途端に、風呂敷を抱く手に力がこもる。二筋も行かぬうちに、荒物屋の軒下へ踏ん張って、石地蔵のように動かなくなった。
「戸長のところなら、家の者が迎えに来てくれる。決まりごとだ」
決まりごとだ、は、教場の外では、なおのこと効かない言葉だった。男児は上目づかいのまま、地面へぽたぽたと汗の粒を落としている。往来の人が、ちらちらとこちらを見た。子を泣かせている学校の先生、という図に見えているに違いなかった。
誠一は、諦めて男児の隣にしゃがんだ。懐から手拭いを出して、首筋の汗を拭いてやると、男児は、されるままになっていた。意地の張り合いは、これでいくらか、ほどけたらしかった。汗のにおいに、かすかに墨のにおいがまじっている。抱えた風呂敷の結び目からは、算盤の角が覗いていた。脇から、手垢で光った折手本も見える。手習いの帰りであることは、それで知れた。
「……おまえの先生というのは、学校の先生か。それとも、手習いの師匠か」
「ししょう」
男児の顔が、初めてまっすぐに上がった。
――隣町の長屋に、手習いの師匠が。
昼の麦湯の話が、そこでようやく思い当たった。噂を聞いたその日のうちに、当の塾の弟子を堀端で拾うことになろうとは、思いも寄らなかった。
歩き出してみると、男児は誠一の袖を握った。握ってから、握ったことをごまかすように、そっぽを向いた。汗みずくの、小さな握りである。誠一は、歩幅を半分にした。
隣町の長屋筋は、路地が濃い。誠一は手習い所のありかなど知らないから、頼りは男児の足だけである。その足も、角をふたつ曲がるごとに雲行きが怪しくなったが、水撒きあとの湿った道を三度ほど行き戻りするうち、別の荒物屋の前で、男児が急に誠一の袖を引いた。そこから先は、男児のほうが先に立った。夕方の物売りの声を背に、伸びた影を踏みながら、細い路地を奥へ、奥へと行く。
井戸端で夕餉の支度をしていた長屋の女たちが、男児の顔を見て、おかえり、と声をかけた。男児は知らん顔で通ったが、誠一の袖を引く手は、そのぶん誇らしげに強くなった。この路地に入ってしまえば、迷い子ではないのである。
突き当たりの手前に、仕舞屋とも長屋の端ともつかぬ、古い借家があった。腰高障子が開け放してあり、軒下に木札が一枚、下がっている。
板切れに、墨で、手習い指南、片桐〈かたぎり〉、とだけあった。
誠一は、足を止めた。木札の板は、雨染みだらけの端材である。だがその上の字が、みごとだった。楷書の、一分の隙もない、それでいて肩の張らない字である。教場の壁に貼ってあるどの手本より、と言いかけて、誠一はその先を思うのをやめた。
男児は、木戸をくぐるなり駆け出した。
「ししょう」
奥から、おう、と存外に若い声が返った。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。