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第三章 隣の師匠①

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/15 📚 シリーズ: 易知学校 手習い記 📝 2,651文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

明治九年、神田。 型どおりの教え方にすがる気弱な仮教員・宮田誠一は、生徒一人ひとりの事情に触れるうち、手本だけでは掬えないものがあると知る。 元寺子屋の女師匠・いねの見守りを受けながら、迷いながらも、自分なりの「教える」を探し始める。 ※本作は、生成AIを利用しています。

本文

 一 迷い子

 朝から、蝉の鳴きどおしの日だった。

 教場の障子を残らず開け放しても、風より先に蝉の声が入ってくる。手習いの刻限になると、それに子供らの熱気が加わって、墨のにおいまで汗ばんで感じられた。

 誠一は机の間を回った。まつの字は、今日も半紙の隅につましく寄っていたが、近頃は寄り方にも行儀が出て、列の頭が揃うようになった。留吉の半紙は相変わらず上から下まで黒々として、姓名の四字だけが埒外に大きい。朝の出欠で、大野、と呼んでから返事までの間も、いまはもう、ほかの子と変わらない。

「せんせい、墨が乾いちまった」

「え、ええ。硯に水を、少しだけ……ああ、こぼさぬように」

 言ううちに水差しが傾いて、隣の子の半紙まで濡らした。教場がどっと笑い、濡らした当人まで笑うので、叱る間がない。手を叩いて静まらせるのに、誠一は今日も、ひと呼吸ぶん遅れた。

 手本のとおりに、と言って回る。言いながら、朱の直しを入れる。それで手習いの刻限は事足りる。少なくとも、教則の上では。

 昼になると、いね先生が土瓶を提げて職員室に入ってきた。

「麦湯をおあがりよ。宮田先生は、夏に強くないんだから」

 誰がそう決めたのかは知らないが、否やを言うより先に湯呑みが置かれるので、誠一はいつも頂戴している。麦湯は、井戸で冷やしてあった。

「そういえばさ」

 自分の湯呑みに注ぎながら、いね先生が言った。

「隣町の長屋に、手習いの師匠が居着いてるんだとさ。御一新前からの人じゃなくて、二年だか三年だか前に、ふらりと越してきた口だって」

「私塾ですか」

 誠一は、湯呑みを持ったまま少し考えた。

「学校が、ありますのに」

「あるのにさ」

 いね先生は麦湯をひと口啜って、目を細めた。

「うちだって、つい此間まで寺子屋だったんだけどねえ」

 返す言葉に詰まって、誠一は麦湯を飲んだ。

「なんでも、束脩〈そくしゅう〉は取れるだけでいいって構えらしくてさ。月謝の重い家には、ありがたがられてるんだと」

 いね先生の言いようは、学校の肩を持つでも、その師匠の肩を持つでもなかった。月謝の重い家、の一言の先には、まつの顔がある。誠一は、頷きの置きどころを探しているうちに、頷きそこねた。

 話はそれきりで、午後は算術の刻限になり、夕方には、そんな噂を聞いたことも忘れていた。

 思い出すことになったのは、その日の帰りである。

 紙屋に半紙の仕入れを頼んだ帰り道、堀端の柳の下に、子供がひとり、立っていた。五つか六つの男児である。風呂敷包みを胸に抱え、口を真一文字に結んで、行き交う大人の脚ばかり見上げている。遊んでいる立ち方では、なかった。

「どうした」

 しゃがんで目の高さを合わせると、男児は一歩下がった。

「家の者と、はぐれたか」

 首が、横に振れる。

「帰る道が、わからないか」

 こんどは、縦に振れた。

 ここまでは、よかった。

「家は、どこだ」

「……せんせいのとこ」

「先生。学校か」

 ちがう、と首が振れる。せんせいのとこ、と男児は同じ言葉を繰り返した。それきり、口が固い。

「父つぁんの名は、何という」

「……ちゃん」

 これは、訊き方が悪かった。

「住まいの町の名は」

 男児はしばらく思案して、負けず嫌いの目で誠一を見上げると、

「せんせいのとこの、そば」

 と言った。

「では、その先生の名は」

 男児は、これには胸を張った。

「ししょう」

「師匠という名の人は、いない。……いや、いるのかもしれんが」

 埒が明かない、という言葉の、見本のようなやり取りである。

 こういうときの手順なら、心得ている。迷子は戸長のところへ連れて行き、触れを回してもらうのが筋である。誠一が手を引いて歩き出すと、男児の足は目に見えて重くなった。戸長、と聞こえた途端に、風呂敷を抱く手に力がこもる。二筋も行かぬうちに、荒物屋の軒下へ踏ん張って、石地蔵のように動かなくなった。

「戸長のところなら、家の者が迎えに来てくれる。決まりごとだ」

 決まりごとだ、は、教場の外では、なおのこと効かない言葉だった。男児は上目づかいのまま、地面へぽたぽたと汗の粒を落としている。往来の人が、ちらちらとこちらを見た。子を泣かせている学校の先生、という図に見えているに違いなかった。

 誠一は、諦めて男児の隣にしゃがんだ。懐から手拭いを出して、首筋の汗を拭いてやると、男児は、されるままになっていた。意地の張り合いは、これでいくらか、ほどけたらしかった。汗のにおいに、かすかに墨のにおいがまじっている。抱えた風呂敷の結び目からは、算盤の角が覗いていた。脇から、手垢で光った折手本も見える。手習いの帰りであることは、それで知れた。

「……おまえの先生というのは、学校の先生か。それとも、手習いの師匠か」

「ししょう」

 男児の顔が、初めてまっすぐに上がった。

 ――隣町の長屋に、手習いの師匠が。

 昼の麦湯の話が、そこでようやく思い当たった。噂を聞いたその日のうちに、当の塾の弟子を堀端で拾うことになろうとは、思いも寄らなかった。

 歩き出してみると、男児は誠一の袖を握った。握ってから、握ったことをごまかすように、そっぽを向いた。汗みずくの、小さな握りである。誠一は、歩幅を半分にした。

 隣町の長屋筋は、路地が濃い。誠一は手習い所のありかなど知らないから、頼りは男児の足だけである。その足も、角をふたつ曲がるごとに雲行きが怪しくなったが、水撒きあとの湿った道を三度ほど行き戻りするうち、別の荒物屋の前で、男児が急に誠一の袖を引いた。そこから先は、男児のほうが先に立った。夕方の物売りの声を背に、伸びた影を踏みながら、細い路地を奥へ、奥へと行く。

 井戸端で夕餉の支度をしていた長屋の女たちが、男児の顔を見て、おかえり、と声をかけた。男児は知らん顔で通ったが、誠一の袖を引く手は、そのぶん誇らしげに強くなった。この路地に入ってしまえば、迷い子ではないのである。

 突き当たりの手前に、仕舞屋とも長屋の端ともつかぬ、古い借家があった。腰高障子が開け放してあり、軒下に木札が一枚、下がっている。

 板切れに、墨で、手習い指南、片桐〈かたぎり〉、とだけあった。

 誠一は、足を止めた。木札の板は、雨染みだらけの端材である。だがその上の字が、みごとだった。楷書の、一分の隙もない、それでいて肩の張らない字である。教場の壁に貼ってあるどの手本より、と言いかけて、誠一はその先を思うのをやめた。

 男児は、木戸をくぐるなり駆け出した。

「ししょう」

 奥から、おう、と存外に若い声が返った。

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鞍雲

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