第三章 隣の師匠②
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田。 型どおりの教え方にすがる気弱な仮教員・宮田誠一は、生徒一人ひとりの事情に触れるうち、手本だけでは掬えないものがあると知る。 元寺子屋の女師匠・いねの見守りを受けながら、迷いながらも、自分なりの「教える」を探し始める。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
二 隣の師匠
出てきたのは、痩せた四十がらみの男だった。
着古した木綿の単衣に、伸びた月代もそのまま、髷だけは無造作に結ってある。男児の顔を見るなり、男は框から土間へ下りてきた。
「こら。皆で堀端まで手分けして探した騒ぎだぞ」
声は大きいが、叱る声ではなかった。男児の頭に、ぽんと大きな掌が載る。
「……無事なら、いい」
それから男は、戸口の誠一に目を移し、居ずまいを直して辞儀をした。武家の辞儀だった。
「お連れくださったか。かたじけない」
「堀端で、行き合っただけです。その……先生のところ、としか言わないもので、手間取りました」
「先生のところ」
男は男児を見下ろして、目尻に皺を寄せた。
「だ、そうだ。おまえの家は、いつからここになったんだったかなあ」
男児はにやりと笑い、それで御用は済んだという顔で、框に腰かけて風呂敷を解きにかかった。
「こら、今日はもう仕舞いだ。家へ帰れ。角より先へ寄り道するな」
男児は名残惜しそうに風呂敷を抱え直し、木戸を出ていった。家はこの路地の並びだという。なんのことはない、迷ったのは帰り道ではなく、寄り道の帰りであるらしい。
「白湯しかないが」
と男は言った。上がり框で暇を告げるつもりが、勧められるまま、誠一は部屋へ上がっていた。
八畳ひと間に、手習い机が六つばかり。高さも塗りもばらばらで、脚を麻紐で括り直したのもある。壁には手本が貼ってあるが、それが一枚ごとに違った。いろはの隣に商売往来、その隣には、大人の素読に使うような漢籍の書き抜き。等級ごとに束ねた教場を見慣れた目には、まるで雑然として映る。ただ、どの手本の余白にも、朱の直しがこまごまと入っていた。
「見れば、そなたも筆の傍で飯を食う口と見えるが」
白湯の湯呑みを寄越しながら、男が言った。指先の墨だこで知れたものらしい。
「易知学校の教員で、宮田と申します」
仮教員の、仮の字を省いて名乗ったことに、言ってから気がついた。
「ほう。学校の」
男は片桐と名乗り、それから目尻の皺を深くした。
「商売敵だ」
からからと笑う。笑いに、棘のかけらもなかった。
「お弟子は、何人ほど」
「十を数える日もあれば、五で欠ける日もある。……儂の塾になんぞ、束脩もろくに払えん子ばかりよ。それでも、来る者は拒まん」
儂、という一人称が、その痩せた身体つきに、妙に据わりよく聞こえた。
「その、手本が……皆、ばらばらのようですが。等級は、どのように」
「等級」
片桐は、その言葉を珍しい菓子のように口の中で転がした。
「うちには、そんな上等なものはない。さっきの童は、いろはの『ぬ』でひと月停まっている。そのかわり算盤を持たせれば、大人はだしだ。表の娘は逆で、読むほうは商売往来まで行ったが、算盤は嫌いで触りもせん」
「学校には……通わないのですか。ここの子らは」
「通える子は、向こうへやるさ。儂のところへ来るのは、月謝の払えん子、朝晩に稼ぎのある子、学校の敷居をまたぎたがらん子。……いろいろよ」
「では、学校が取りこぼした子を」
「取りこぼした、は違うな」
片桐は、団扇をゆるく振った。
「笊〈ざる〉の目が違うだけの話よ。大きい笊と小さい笊では、掬える豆の形が違う。どちらの笊が上等ということもない」
「それで……よろしいのですか。手本も、進みも、皆ばらばらで」
「よろしくは、なかろうな」
あんまりあっさり言うので、誠一は二の句を失った。
「『ぬ』は、いずれ書ける。算盤の指は、いま伸びたがっている。どちらを先にやるかというだけの話だ。……もっとも」
片桐は白湯を啜った。
「これが正しいやり方かどうかは、儂も知らん」
それから片桐は、己の来し方を語った。湿った身の上話ではない。座持ちの噺でも聞かせる調子である。
もとは西国の小さな藩の、禄の薄い家の生まれだという。剣術はからきしで、書物ばかり読んで朋輩に笑われた。それが御一新で藩ごと消えて、禄も消えた。
「皆が身の振り方に頭を抱えるなかで、儂だけは思案がなかった。これからは字がいる、と見えたからな。読み書きのできん者から順に難儀をする世が、もう来ていた。……見立ては当たったが、儲けの算段だけは、みごとに外れてな」
国を出てからは、あちこちで筆耕だの帳付けだのをして食いつなぎ、二年ほど前、神田へ流れ着いた。学問の町と聞いたからだという。わけがそれだけかと問えば、それだけだ、と笑った。
片桐は団扇を持ったまま、部屋の中を、ぐるりと指してみせた。
「侍が地に落ちて、今じゃ洟垂れの尻を叩くのが飯の種よ。……悪くない話だろう」
自慢とも自嘲ともつかぬ言い方だったが、暗さは、どこにもなかった。誠一は、返す言葉のかわりに、部屋を見た。欠けた湯呑み、括り直した机の脚、貼り替えたばかりらしい障子の白。どれも貧乏の道具のはずだのに、その並びようが、なぜか明るかった。
訊きたいことが、ひとつ、喉の奥にあった。教則のことでも、束脩のことでもない。
「……怖く、ありませんか」
口を出たのは、思案の順を飛ばした言葉だった。
「教え方を、誰も決めてくれないのは。私は、手本と教則のとおりにやっています。決められたとおりに。それでも、これでよいのかと、毎晩……」
言いさして、やめた。初対面の相手に打ち明ける筋合いの話ではない。だが片桐は、笑わなかった。団扇が、止まっていた。
「そなた、歳はいくつだ」
「二十三に、なります」
「儂が手習いの看板を出したのは、四十を過ぎてからだ」
片桐は、こともなげに言った。
「初めの年は、子の顔より、手前の手つきばかり見ていた。筆の持たせ方ひとつ教えるのに、前の晩から胸の内でさらってな。……いまも、わからんことだらけよ。儂もまだ、教えるということの正しい形なんぞ、知らん」
前の晩から、胸の内でさらう。誠一は、下宿の行灯と、手控えの帳面を思った。同じことをしている人間が、路地ひとつ隔てた隣町にいたのである。
それでは、と誠一は言いかけた。それでは、私と同じではありませんか。言葉になる前に、片桐が続けた。
「だがな、宮田どの。迷うことと、迷いながら前へ進むことは、別の話だ」
開け放した障子の外で、蝉が鳴き替わった。
誠一は、頷いた。頷くほか、できることがなかった。
日が傾いて、路地の影が部屋の中まで伸びてきた頃、誠一は暇を告げた。片桐は木戸まで出て見送った。
「手習いの親爺の講釈で、日を暮れさせたな」
「いえ」
いえ、の先が続かなかった。続けたい言葉はあるのだが、それに合う文句を、誠一はまだ持っていなかった。かわりに、白湯の礼を言って、深く辞儀をした。片桐も、武家の辞儀を返した。それから、からりと付け足した。
「精のない客だ。今度来るときは、束脩を持ってこい」
冗談である。わかっていて、はい、と答えてしまった。背中で、片桐の笑い声が路地に響いた。
堀端まで戻ると、水面が夕焼けの色をしていた。
迷うことと、迷いながら前へ進むことは、別の話だ。
胸の内で繰り返すと、その文句は、片桐の声で鳴った。下宿に帰ったら手控えに書き付けておこう、と思い、それから、やめようと思い直した。書き付けずとも、忘れそうにない文句だった。
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