第111話 地図に出ない順路
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
9月に入ると、朝の空気だけが先に秋へ向かい始めた。
通りにはまだ夏の光が残り、昼になれば窓を閉めたくなるほど気温も上がったが、正面玄関を開けたときに入ってくる風は、8月のものとは違っていた。ユンゲは受付の窓を少し開け、机の端に置いていた薄い紙が浮かないよう、インク壺を重し代わりに置いた。
製図室には、防空展から戻ってきた図面の筒や備品の箱が残っていた。展示用の矢印板は会場側へ引き渡したが、使わなかった予備の札と、修正前の順路図が何枚か壁に立てかけられている。
Fw190はすでに航空軍の整備班によって解体され、会場から運び出されていた。あれほど大勢の客を足止めした機体がなくなると、会場は驚くほど広く見えたという。
「飛行機がなくなっただけで、床まで広くなったように見えました」
クレープスがそう言うと、ヒトラーは新聞から目を上げずに答えた。
「最初から同じ広さだ。大きなものを置くと、人間は残りを狭いと思う」
机の上には朝刊が広げられていた。スポーツ面からはブラジル大会の文字がようやく減り、国際面には太平洋、インド、ソ連の記事が詰め込まれていた。
ガダルカナル島とソロモン海方面では、日米両軍の航空戦と艦艇の動きが続いている。日本軍は島への増援を試み、アメリカ軍は飛行場を使い始めた。新聞の地図には島々と矢印が描かれていたが、どの海域に空母がいるのかは示されていなかった。
ブラジル政府は、ワールドカップ終了後も国際情勢への関心を維持し、大西洋だけでなく太平洋方面の海運と通商路についても慎重に注視すると発表していた。
「大会が終わった途端に、海を見る余裕ができたらしい」
フランツが言った。
「客が帰ってから戸締まりを確認するようなものだ」
ヒトラーは紙面を指で押さえた。
「だが、見るだけなら誰でもできる。船を出すのか、港を貸すのか、それとも声明だけ出して椅子へ戻るのか。それが書いてない」
その下には、ヴォルガ方面で行われていたソ連軍の大演習が終了したとの記事があった。しかし、参加した部隊の多くは演習地周辺に留まり、鉄道による帰営も始まっていないらしい。
「演習は終わったそうです」
ユンゲが言った。
「兵隊は帰っていませんけど」
ヒトラーは紙面を二度読み直した。
「芝居は終わったと言いながら、役者が衣装を脱いでおらん」
ヨードルが記事をのぞき込んだ。
「次の演習に移る可能性もあります」
「ならば帰らない理由をそう書けばよい。終了と書いて、終わっていないものを残すな」
インドでは、ガンディーらの拘束後も抗議運動が続いていた。鉄道や通信の混乱、各地での集会、官憲との衝突が小さな活字で並んでいる。
カイテルは新聞を受け取り、しばらく読んでから言った。
「指導者を拘束すれば、運動はまとまりを失うと考えたのでしょう」
「頭を切れば手足が止まると思ったのだ」
ヒトラーは椅子へ深く座った。
「だが、最初から全員が同じ頭を見て動いていたとは限らん。人間は命令がなくても歩く。間違った方向へもな」
正面玄関のベルが鳴った。
ユンゲが受付へ戻ると、大きな鞄を提げたヒムラーが立っていた。鞄は資料を詰め込みすぎたらしく、片側が不自然に膨らんでいる。
「防空展の最終集計をお持ちしました」
ヒムラーは満足そうに言った。
「最終という割には、まだ増えそうな鞄だな」
ヒトラーは所長室から出てくるなり、鞄を見て眉をひそめた。
応接の机へ資料を広げると、来場者の総数だけでなく、日ごとの入場時間、年齢、居住地区、職業、家族人数、住宅形態、地下室の有無、ラジオの所有、防火器具の準備状況まで細かく分類されていた。
さらに、どの展示で足を止めたか、どの説明を役立つと思ったか、帰宅後に何を準備するつもりかまで表になっている。
ヒトラーは1枚を手に取った。
「靴職人、靴販売業、皮革卸売業、製靴機械関係」
「職業別の防空意識です」
「なぜ靴を作る者と売る者を分けた」
「日常的に火や接着剤を扱う頻度が違います」
「空襲が来れば、どちらも同じ家へ帰る」
「しかし回答には差が出ています」
「差を見つけるために分けたのか、分けたから差があるように見えるのか、どちらだ」
ヒムラーは答える代わりに、別の表を差し出した。
防空展の来場者数は事前の見込みを上回っていた。最も人気を集めたのはFw190で、その次に高射砲、探照灯、電波警戒装置が続いた。
家庭用の水桶、砂袋、黒布、救急箱については、役立つと回答した者が多かった。しかし、最も印象に残った展示として挙げた者は少ない。
ヒトラーの顔が曇った。
「結局、飛行機を見に来たのではないか」
「飛行機を見に来た人々が、帰りには水桶と黒布の必要を知ったのです」
ヒムラーは上機嫌だった。
「入口が何であれ、出口まで歩けばよいのではありませんか」
ヒトラーは表を置いた。
「入口に怪物を置いて、出口で水桶を持たせたわけか」
「成功だと思います」
「怪物の方だけ覚えて帰った者もいる」
「それでも、防空展へ来なければ水桶を見ることさえありませんでした」
ヒムラーの言葉には一理あった。
ヒトラーはそれが気に入らないという顔をしたが、反論はしなかった。
ヒムラーはさらに数枚の調査票を取り出した。
自由記入欄には、太平洋戦争と空母についての質問が多く書かれていた。
空母には何機の飛行機を積めるのか。
海上でどうやって着陸するのか。
敵艦をどうやって見つけるのか。
空母が沈んだ場合、飛行機はどこへ帰るのか。
戦艦と空母ではどちらが強いのか。
「次は太平洋について広く伝える場を設けるべきです」
ヒムラーは言った。
「とくに空母です。一般の関心が非常に高い」
「実物は置けんぞ」
「もちろんです。大型模型、飛行甲板の一部再現、艦載機の発着手順、模型艦隊による作戦説明を考えています」
「もう考えているのか」
「会場候補もいくつかあります」
ヒトラーは椅子の背へもたれた。
「空母だけを見せるな」
「護衛の艦も扱います」
「それだけではない。燃料船、輸送船、修理船、港、倉庫、飛行場だ。空母だけ見せれば、客は飛行機が甲板から自然に生えてくると思う」
ヒムラーはすぐに手帳を開いた。
「補給と整備を含める」
「書き取るな。まず考えろ」
「考えたことを書き取っています」
「ならば、考える速度を落とせ」
製図室では、フランツとクレープスが笑わないよう机へ顔を向けた。
ヒトラーは新聞のソロモン諸島の地図を引き寄せた。
「太平洋を見せたいなら、最初に距離を見せろ。この島からこの島まで、線を引けば指1本だ。だが船は指では動かん」
「航続距離と補給ですね」
「船を置く前に、船が帰れなくなる広さを見せろ。空母展ではない。海の上へ仕事場を置き、それを動かし続けるための展示だ」
ヒムラーは満足そうに頷いた。
「その題で企画書を作ります」
「題は決めておらん」
「内容のことです」
「内容もまだ決めておらん」
「ですが、方向は決まりました」
ヒムラーは資料をまとめ始めた。持ってきたときよりも鞄が厚くなったように見えたのは、ヒトラーの指示まで書き込んだからだった。
昼休みになると、所員たちの間でも調査票に書かれていた質問が話題になった。
「空母が沈んだら、飛行機は本当にどこへ行くんでしょう」
クレープスが言った。
「近くに別の空母があれば、そちらへ降りる場合もあるだろう」
フランツが答えた。
「飛行場まで届かなければ?」
「海だ」
ブルクドルフが短く言った。
ユンゲは回答用紙を整理しながら、同じ質問を違う言葉で書いた者が何人もいることに気づいた。
「皆、飛行機が戻る場所を気にしています」
「人間は、出る場所より帰る場所を気にする」
ヒトラーは自分の昼食を机へ運ばせながら言った。
「新聞は飛び立った数を書く。だが帰れなかった数は後から小さく書く」
午後になると、再び正面玄関のベルが鳴った。
今度はゲッベルスだった。脇に薄い本を数冊抱え、筒に入れた広告案を持っている。
「書店向けの仕事です」
「午前は空母で、午後は本か」
ヒトラーは時計を見た。
「今日は遠い場所ばかり来るな」
ゲッベルスが机へ置いたのは、『失われた地平線』の再版見本だった。
東京空襲の発進地を問われたルーズベルトが「シャングリラ」と答えて以来、ベルリンでも作品への関心が戻り、原作の再版と映画の再上映が動き始めているという。
「5年前の映画が、大統領の一言で新作のようになったんです」
ゲッベルスは広告案を広げた。
中央には雪山と雲に包まれた谷が描かれ、その上に大きな文字が置かれていた。
「爆撃機はシャングリラから来た。では、シャングリラとはどこか」
ヒトラーは黙って広告を見た。
「本の広告なのか、爆撃の記事なのか、どちらだ」
「両方です。それが売れる理由です」
「古い本へ爆撃機を結びつけて、新刊の顔をさせるな」
「世間が先に結びつけたんです」
ゲッベルスは別案を出した。
「大統領が口にした、地図にない理想郷」
「こちらの方がまだましだ」
「まだ、ですか」
「大統領を大きくするな。書いたのはヒルトンだ」
ゲッベルスが来たことで、製図室でも本と映画の話が始まった。
ユンゲは小説を読んだことがあった。フランツは映画だけを見ていた。クレープスは題名とシャングリラという言葉しか知らず、旅行記のようなものだと思っていた。
「雪山の向こうに、年を取らない谷がある話です」
ユンゲが説明した。
「年を取らないんですか」
「正確には、とてもゆっくり年を取るんです」
「仕事の締切もゆっくりになるのかな」
フランツが言った。
「締切だけは普通に来るでしょう」
ヨードルが答えた。
エルゼは見本を手に取った。
「200年も生きられたら、200年分の帳簿が残りますね」
「そこを気にするんですか」
ユンゲが笑った。
「長生きと会計は別問題です」
カイテルは外交官が主人公だと聞き、少し興味を示した。ブルクドルフは山中へ大きな建物を建てた資材の運搬方法が気になると言った。
話を聞いていたヒトラーが、不意に口を挟んだ。
「そもそも、200年も生きるラマ僧がいるものか」
製図室が静かになった。
ユンゲがヒトラーを見た。
「所長、読み返したんですか」
「読み返してはおらん」
「200年生きる高僧の話は、かなり後に出てきます」
「広告を判断するために、必要な箇所を確認しただけだ」
ゲッベルスが嬉しそうに笑った。
「それを読み返したと言うんです」
「言わん」
「最初からですか」
「必要なところまでだ」
「ずいぶん必要なところが多かったんですね」
ヒトラーは再版見本を取り上げた。
「200年生きる者を、あれほど階段の多い建物へ住まわせる設計がおかしい。長命と健脚は別の問題だ」
誰もすぐには答えなかった。
フランツが下を向いた。クレープスは口元を手で隠した。エルゼだけは平然としていた。
「そこまでご存じなら、再版の監修もできますね」
「せん」
「書店向けに、所長の推薦文を」
ゲッベルスが言った。
「200年生きる僧などいない、と書いてやる」
「それはかえって売れそうです」
ヒトラーは広告案を机へ返した。
「雪山を少し下げろ。文字が谷を潰している。理想郷を売るなら、客が入れる余白を残せ」
ゲッベルスはすぐに鉛筆を取り出した。
「やはり読んでいるじゃありませんか」
「本ではない。広告の話だ」
夕方、ゲッベルスが帰ると、ユンゲは応接の机を片付けた。
ヒムラーの来場者調査表、ソロモン諸島の地図が載った新聞、書店広告の下書き、『失われた地平線』の再版見本が重なっていた。
調査表には、防空展を歩いた人々の順路が数字で残っていた。
新聞の地図には、島と飛行場と海が描かれていたが、空母の位置はなかった。
ソ連軍の帰営路も、インドの抗議運動の広がりも、ブラジルがどこまで太平洋を見るつもりなのかも、紙面の上にははっきりとは示されていなかった。
ユンゲが本を閉じようとすると、間に細長い紙片が挟まっていた。
かなり後ろのページだった。
「所長」
ヒトラーは所長室へ戻りかけていた。
「確認しただけにしては、ずいぶん先までお読みになりましたね」
ヒトラーは振り返り、本から出ている紙片を見た。
「200年という数字がどこに出てくるか探していただけだ」
「最初から読まないと見つからなかったんですか」
「目次に書いてないのが悪い」
ヒトラーは本を取り上げ、紙片を元の場所へ戻した。
「それに、あの谷へ入る道が曖昧すぎる。客を招くなら入口を描け」
「地図に出ない場所ですから」
ユンゲが言った。
ヒトラーは新聞のソロモン諸島を一度見てから、本を脇に抱えた。
「地図に出ないからといって、順路がないわけではない」
そう言って所長室へ入り、扉を閉めた。
ユンゲは机に残った調査表を揃えた。
窓の外では、朝より長くなった影が通りへ伸びていた。
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