第112話 二つの中央
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1942年9月11日、金曜日。
朝のミュンヘンには、夏が忘れ物を取りに戻ってきたような暑さが残っていた。
通りには強い日差しが差していたが、正面玄関を開けたときに入ってくる風は冷たかった。ユンゲは薄い上着を椅子の背へ掛け、受付の窓を少しだけ開けた。
製図室では、クレープスが前日の新聞をまとめ、フランツが朝刊を広げていた。
ヒトラーは所長室から出てくると、新聞の一面を見て足を止めた。
「アメリカ本土に日本機飛来」
見出しの下には、オレゴン州南部の森林地帯へ小型機が焼夷弾を投下したとあった。被害は小さく、森林火災も広がらなかったらしい。
記事の中ほどに、機体は日本潜水艦から発進した可能性があると書かれていた。
ヒトラーは新聞を持ち上げ、文字へ顔を近づけた。
「潜水艦から飛行機が出たのか」
「そう書いてあります」
クレープスが答えた。
「格納筒に分解して入れて、海上で組み立てたのではないかと」
「海の上でか」
ヒトラーは記事を最初から読み直した。
「Uボートは船を沈めるために潜る。日本は飛行機を隠すために潜ったのか」
「偵察機を積める潜水艦は、前から持っていたようです」
フランツが言った。
「偵察ではない。爆弾を落としている」
ヒトラーは新聞を机へ置いた。
「潜水艦を、海の下に置いた飛行場にしたわけだ」
クレープスがオレゴン州の位置を地図帳で探した。太平洋岸の端へ指を置く。
「ここです。日本からだと、かなり遠いですね」
「遠いから潜水艦で運んだのだろう。飛行機だけでは届かん。船だけでは森へ入れん。それで2つを重ねた」
ヒトラーは感心したように言ったが、記事の後半を読むと、すぐに眉をひそめた。
攻撃前には雨が降っており、森林は湿っていた。投下された焼夷弾による火は、発見した監視員らによって消し止められている。
「それで、燃えたのはどれだけだ」
「大きな被害は確認されていないそうです」
「潜水艦をアメリカまで運び、飛行機を組み立て、森の上まで飛ばし、焚き火を作って帰ったのか」
「アメリカ本土を空襲した、という効果はあります」
カイテルが言った。
「効果ではない。印象だ」
ヒトラーは地図帳を閉じた。
「発想には入口がある。結果に出口がない」
新聞の隣の記事には、地中海でイタリア病院船アルノ号がイギリス艦隊の臨検を受けたとあった。
英伊間には、病院船の航路と積荷を事前に通報し、必要に応じて確認を行う協定がある。しかし今回のイギリス艦隊は、通報された海域から大きく外れていないアルノ号を停船させ、乗船検査まで行っていた。
武器や一般兵員、軍需物資は見つからず、アルノ号は数時間後に解放されている。
イギリス側の発表には、事前通報の内容と積荷が一致していることを確認した、とあった。
イタリア政府は、協定を威圧的に運用したとして抗議していた。
「中身が正しいと分かったのに、なぜ両方とも怒っている」
ヒトラーが言った。
カイテルが新聞を受け取った。
「イギリスは、必要ならいつでも検査できると示したかったのでしょう。イタリアは、検査される立場ではないと示したい」
「病院船の中身ではなく、どちらが船を止められるかを検査したのか」
「そういう面はあります」
「それなら病院船を使うな。巡洋艦を並べて、どちらが先に汽笛を鳴らすか決めればよい」
フランツが紙面をのぞき込んだ。
「イタリア側は、アルノ号が予定どおりの航路を取っていたと主張しています」
「予定どおりだから止めたのだろう」
ヒトラーは言った。
「イギリスは、どこにいるか分からない船ではなく、止められる場所にいる船を選んだ。ちゃんと見ているぞ、と見せるには都合がよい」
新聞の下段には、ノルウェー北部の小さな記事があった。
グロムフィヨルド発電所で、第4号発電機が運転を開始したという。増えた電力は、肥料工場や電気化学工業、北部地域の電化へ回される予定だった。
記事には、険しい山の間を通る水路と発電所の写真が載っていた。
「こちらは増やしたのか」
ヒトラーは写真を見た。
「残りの増設工事も続くそうです」
ヨードルが答えた。
「日本は潜水艦から飛行機を上へ出して、森を燃やそうとした。ノルウェーは山から水を下へ落として、工場を動かした」
「どちらも、高いところと低いところを使っていますね」
フランツが言った。
「一緒にするな」
ヒトラーはすぐに返した。
「片方は仕事を増やし、片方は濡れた森へ火を落とした」
所長室からブロンディが出てきて、新聞を持つヒトラーの足元へ座った。
ヒトラーは紙面を畳みながら、もう一度一面を見た。
潜水艦は飛行場になり、病院船は積荷を疑われ、山中の発電所は工業地帯を動かす設備になる。
どれも、名前だけでは役割が分からなかった。
受付の電話が鳴った。
ユンゲが受話器を取る。
「はい、アドルフ・ヒトラー意匠事務所です」
相手はキリスト教国民連合のミュンヘン支部だった。
近く開催する演説会について、会場装飾と壇上の設計を依頼したいという。詳しい内容は、翌日、ベルリン本部の事務局員とミュンヘン支部の幹部がそろって説明に来るらしい。
ユンゲは日付、来所時刻、連絡先を書き取った。
「相談料については、はい。事前にお支払いいただけるということですね」
ヒトラーが受付の方を見た。
ユンゲは受話器を置き、手帳を持って製図室へ戻った。
「政党からの依頼です」
「断れ」
ヒトラーは間を置かずに言った。
「まだ内容を聞いていません」
「政党だと聞いた」
「キリスト教国民連合のミュンヘン支部です。演説会の会場装飾と壇上設計を頼みたいそうです」
「看板屋へ行かせろ」
「会場全体の設計だそうです。明日、ベルリン本部の事務局員と支部の幹部が説明に来ます」
「来させるな」
ユンゲは手帳を持ったまま、エルゼを見た。
エルゼは書類から顔を上げた。
「相談料は」
「前金です」
「設計料は」
「受注する場合は全額前金。印刷費、施工費、会場視察、交通費は別途だそうです」
「契約相手は支部ですか」
「議会会派の会計局です」
エルゼは少し考えた。
「それなら、少なくとも話を聞くことに問題はありません」
ヒトラーが振り返った。
「政党だぞ」
「前金です」
「政治上の問題を言っている」
「私は契約上の問題に答えました」
「国家社会主義労働者党も、最初は話を聞くだけだった」
「相談料は払いましたか」
ヒトラーは答えなかった。
「ビアホールでの騒擾を起こしたときは、会場を押さえたあとで金がないと言い出した。壇上へ椅子を8脚置いたあとで、役員が11人になった。標語を印刷した翌日に、中央委員会が言葉を変えた。そして残金の支払いを、集会の後にしろと言い出したので、私は同志ではない業者だ、と怒鳴ってやった覚えがある」
「今回は、標語変更も追加料金にできます」
「比較するところが違う」
「会計上はかなり違います」
エルゼはユンゲから手帳を受け取り、条件を確認した。
「相談料も先払い。契約は議会会派の会計局。会場使用許可は取得済み。警察との調整も党側で行う。こちらが政治的結果について責任を負わないことも了承するそうです」
「ずいぶん準備がよいな」
「議会多数派ですから、会計と手続きは整っています」
「多数派なら、自分たちで壇を作ればよい」
「多数派だから、失敗したところを大勢に見られたくないのでしょう」
エルゼは手帳を閉じた。
「明日の相談を受けます」
「私が決める」
「では、断る理由を契約書へ書いてください」
ヒトラーはエルゼを見た。
エルゼはすでに別の帳簿へ目を戻していた。
「明日10時です」
ユンゲが小さく言った。
ヒトラーは新聞を持って所長室へ戻った。
ブロンディもその後をついていった。
翌9月12日、土曜日。
ベルリン本部の事務局員とミュンヘン支部の幹部は、約束の10分前に来所した。
ベルリンから来た事務局員は、細身で背が高く、黒い鞄を膝の上へ置いていた。名をフリードリヒ・ヘルマンといった。
ミュンヘン支部の幹部は、丸い顔に短く刈った髪をしていた。名はヨーゼフ・ライナーだった。
2人は同じ党の徽章を上着につけ、同じ色の資料封筒を持っていた。
しかし、受付の長椅子では、間に1人分の空間を残して座っていた。
ユンゲは茶を出しながら、その隙間へ目をやった。
置こうと思えば鞄を置けるほどの幅だったが、どちらも置かなかった。
応接の机には、演説会場の平面図と、党側が作った進行予定表が広げられた。
「演説会の主題は、国民秩序と社会再建です」
ヘルマンが説明を始めた。
「議会多数派として、政府の安定と国家の継続性を訴える重要な集会になります」
ライナーが続けた。
「同時に、地方自治と社会政策について、ミュンヘンの有権者へ具体的な方針を示す場でもあります」
ヒトラーは2人を交互に見た。
「同じ演説会の話をしているのか」
「もちろんです」
ヘルマンが答えた。
「党の基本方針は一致しております」
「重点に若干の違いがあるだけです」
ライナーが言った。
ヒトラーは進行予定表を手に取った。
登壇者の欄には、ベルリン本部推薦候補と、ミュンヘン支部推薦候補の2人の名前が並んでいた。
「候補が2人いる」
「現時点では、どちらも党の有力な候補です」
ヘルマンが言った。
「地元支部としては、ミュンヘンの事情をよく知る人物を推しております」
ライナーが言った。
「2人のうち、どちらを立てるのだ」
「それは演説会後、党の正式な手続きによって決まります」
「地元の意見も十分に考慮されるものと理解しています」
2人は正面のヒトラーを見たまま言った。互いの顔は見なかった。
ヒトラーは進行予定表を机へ置いた。
「決める前に演説させるのか」
「党員と支持者へ、それぞれの考えを伝える必要があります」
「だが、討論はさせない」
ヘルマンがわずかに姿勢を正した。
「党内の不必要な対立を公衆の前へ持ち出す考えはありません」
「対立ではなく、政策の違いです」
ライナーが言った。
「違いがあるから候補が2人いるのだろう」
応接の空気が少し固くなった。
エルゼは契約書案を確認していた。ユンゲは筆記を続けていたが、紙の上を動くペンの音が妙に大きく聞こえた。
ヘルマンが咳払いをした。
「党としての秩序を保ちながら、両候補に公平な発言の機会を与えたいのです」
「公平に見える機会か」
「公平な機会です」
「では、同じ壇に並べればよい」
ライナーが初めてヘルマンの方を見た。
ヘルマンもライナーを見た。
「それは」
2人がほぼ同時に口を開き、同時に止まった。
ヒトラーは椅子へ深く座った。
「並べたくないのか」
「無用な比較を招きます」
ヘルマンが答えた。
「演説の内容ではなく、拍手の大小や座る位置ばかりが報道される恐れがあります」
「中央へどちらを座らせるかでも、問題になります」
ライナーが言った。
「つまり、2人とも中央へ座りたい」
「そういう表現は適切ではありません」
「ならば、どちらも端へ座らせる」
「それも困ります」
ヒトラーは机を指で叩いた。
「適切ではない、困る、比較されたくない。お前たちは、演説会を開きたいのか、開いていないように見せたいのか」
「党として一体であることを示したいのです」
ヘルマンが答えた。
「一体なら候補を1人にしろ」
ライナーが少し身を乗り出した。
「本部が先に候補を決めてしまえば、地元の意思が反映されません」
ヘルマンの顔が硬くなった。
「党の候補者選定は、地方だけで決めるものではありません」
「地方で票を得る候補を、地方抜きで決めるものでもありません」
応接室で、演説会より先に演説が始まりかけた。
ヒトラーは手を上げた。
「止めろ」
2人は黙った。
「ここは会場ではない。拍手もない」
ヒトラーは平面図を引き寄せた。
会場は横長で、正面に舞台があった。舞台裏には狭い控室が1つと、搬入口へ続く廊下がある。
「控室が足りん」
「候補者用として1室あります」
「2人いる」
「時間を分けて使用する予定です」
「同じ部屋でか」
ヒトラーは2人を見た。
「先に使った者の煙草の匂いや、置き忘れた紙まで次の者に見せるつもりか」
「清掃を入れます」
「清掃で候補者の機嫌まで片付くなら、政党に意匠家はいらん」
ヒトラーは鉛筆を取り、舞台裏へ2本の線を引いた。
「控室を2つに分ける」
「公平な広さでお願いします」
ライナーが言った。
「まだ線を1本引いただけだ」
「窓のある側は」
ヘルマンが言いかけた。
ヒトラーが鉛筆を置いた。
「もう始まったな」
2人は黙った。
ヒトラーは舞台正面の中央へ縦線を引いた。
「演壇は1つだ」
ヘルマンが頷いた。
「党の統一を示すには、それがよいと思います」
「候補者の肖像は置かん」
「本部候補の写真はすでに用意しています」
「地元候補の写真もあります」
「だから置かん」
ヒトラーは言った。
「顔を2つ並べれば、客は政策より先に大きさを比べる。高さ、幅、額縁、照明、どちらが中央へ近いか。新聞も同じことを書く」
「では、党の徽章を中央に」
「それは置く。ただし大きくしすぎるな。党が演説者を食う」
ヒトラーは舞台中央の線をなぞった。
「2人とも、ここへ立たせる」
ヘルマンが少し身を乗り出した。
「同時にですか」
「同時に立たせるなと言っている」
ヒトラーは進行表へ目をやった。
「最初に本部候補。次に社会民主党の連立代表を挟む。休憩を入れ、その後にミュンヘン候補だ」
「本部候補が先ですか」
ライナーが尋ねた。
ヘルマンは何も言わなかったが、わずかに表情を緩めた。
ヒトラーはそれを見逃さなかった。
「先に演説した者が上だと思うなら、最後に変える」
今度はライナーの顔が少し明るくなった。
「最後の者が上だと思うなら、抽選にする」
2人の表情が同時に消えた。
「順番に意味を持たせるな。内容を聞かせろ」
「新聞写真はどうしますか」
ヘルマンが尋ねた。
「正面から同じ位置で撮らせる。同じ演壇、同じ背景、同じ大きさだ。2人が並んだ写真は撮らせん」
「握手は」
「させたければ舞台裏で勝手にしろ」
「党の統一を示す写真は必要です」
「握手をしなければ統一しているように見えない党なら、写真の問題ではない」
エルゼが契約書から顔を上げた。
「候補者、演説順、標語の変更は、契約締結後は追加料金となります」
ヘルマンがすぐに答えた。
「承知しています」
ライナーも頷いた。
「会場の追加工事費も別途です」
「問題ありません」
「設計料は全額前金です」
「会派会計局から、本日中に送金手続きを行います」
エルゼは書類を閉じた。
「問題ありません」
ヒトラーが横目で見た。
「まだ受けると言っておらん」
「契約上の問題はありません」
「それしか言わんな」
「それ以外は所長の仕事です」
ヒトラーは再び図面を見た。
正面の中央線は1本だった。
その裏側では、2つの控室から伸びる通路が別々に舞台袖へ向かっている。候補者同士は顔を合わせず、客席からは同じ場所へ現れたように見える。
クレープスが後ろから図面をのぞいた。
「中央は1つですね」
「見える中央は1つだ」
ヒトラーは答えた。
「見えない方は?」
ヒトラーは舞台裏に分かれた2本の通路を鉛筆で指した。
「そちらは、どちらも自分が中央だと思っている」
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