第四章 学べぬ子①
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田。 型どおりの教え方にすがる気弱な仮教員・宮田誠一は、生徒一人ひとりの事情に触れるうち、手本だけでは掬えないものがあると知る。 元寺子屋の女師匠・いねの見守りを受けながら、迷いながらも、自分なりの「教える」を探し始める。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
一 またがれぬ敷居
つくつく法師が鳴き替わる頃になって、朝の教場に、涼しい風がひと筋通るようになった。
子供らの声にも、心なしか張りが戻っている。誠一は出欠簿を繰りながら、名を読み上げていった。安藤、大野、と呼べば、はい、はい、と声が返る。その返事の連なりの中で、ひとつだけ、返らない名があった。
「橋本、たか」
返事のかわりに、障子の外で雀が鳴いた。
これで、四日つづけての欠けである。
たかの顔は、覚えている。この夏から通いはじめたばかりの、数えで九つの女児である。教場では列のいちばん端に座り、皆で声を揃えて読む稽古のときも、口だけ動いて声の出ない子だった。手はきれいに膝の上、目だけが手本の上を、熱心に動いていた。
それと、もうひとつ。数日前の朝の、校門である。
あの朝、たかは校門の前にいた。風呂敷を胸に抱え、敷居の一歩手前で、立っていた。誠一が声をかけようとしたとき、たかはくるりと背を向けて、来た道を駆け戻っていった。使いの途中に通りかかっただけだろうと、そのときは思うことにした。思うことにした、というのが正直なところである。
――学校の敷居をまたぎたがらん子。
片桐の声が、ふいに耳の奥で鳴った。月謝の払えん子、朝晩に稼ぎのある子、学校の敷居をまたぎたがらん子。あの人の塾に来るのは、そういう子らだという話だった。
たかは、どれなのだろう。それとも、どれでもないのだろうか。
手習いの刻限、誠一は机の間を回った。
まつの字は、近頃、直しを待つ間に次の字を独りでさらうようになった。朱を入れてやると、隅で小さく頷いて、また紙に向かう。留吉は留吉で、隣の席の年下の子に、大野の大の字は人が手足を張った形なのだと、講釈を垂れている。出どころは、十日ばかり前の誠一の講釈である。人に教えたがるほど、あの姓はもう、あの子の身についたらしい。
教場は、いつもの教場だった。ただ、列の端の机がひとつ、空いている。
昼、職員室で渋茶を注ぎながら、いね先生に、橋本たかの家のことを訊いてみた。
「橘屋〈たちばなや〉さんとこの、たかちゃんかい」
いね先生は、土瓶を置いて言った。
「ご存じでしたか」
「あの界隈の子は、たいがい顔だけは知ってるよ。表通りの小間物屋でね。間口は狭いが、手堅い商いをしてなさる。お父っつぁんが、また働き者でさ」
そこでいね先生は、めずらしく、言葉を選ぶ間を置いた。
「いい人なんだよ。いい人なんだけど……たかちゃんを学校へやるのには、はなから気乗りしてなかったふうでねえ」
「気乗りが、しない」
「女の子だからさ」
言い方は静かだったが、湯呑みを置く手つきに、話の重さが出ていた。
「様子を、見てきます」
誠一は言った。規則では、故なき長欠は届け出のうえ――と続けかけて、やめた。口の中で、その文句が妙に薄かった。
橘屋は、表通りの角から二軒目にあった。
間口二間の小店だが、軒先の掃除が行き届いて、打ち水の跡がまだ涼しい。店の中には、櫛、簪〈かんざし〉、紅、白粉、糸に針。狭い店に、女の暮らしの道具が、行儀よく並んでいる。
主人は、誠一の名乗りを聞くと、算盤を置いて框から下りてきた。四十半ばの、恰幅のいい男である。
「これは、先生。むさくるしい店で」
まず座布団を裏返して勧め、奥へ茶を言いつけ、それから畳に手をついて、深々と頭を下げた。
「たかの学校のことで、おいでくださったんでございましょう。先生の足をわざわざお運ばせして、申し訳のないことで」
先回りして詫びられて、誠一は、道々用意してきた文句の、出ばなを挫かれた。
茶を運んできたのは女房で、その後ろの暖簾の陰に、たかがいた。主人は娘の顔を認めると、目元をやわらげた。
「これ、たか。先生にご挨拶は」
たかは暖簾を握ったまま、小さく辞儀をして、引っ込んだ。主人はその後ろ姿を目で追い、それから、詫びるように笑った。
「愛想のない子で。……手先だけは器用なんでございますよ。糸の始末をさせたら、女房より確かなくらいで」
娘の話をするときだけ、声が、商人の声でなくなった。
「たかさんの、お休みが四日続いておりますので……その、お加減でも悪いのかと」
「いえ。おかげさまで、達者にしております」
主人は膝に手を置いて、まっすぐに言った。
「勝手を申しますが、たかは、学校をやめさせて、家で仕込もうと思っております」
「差し支えなければ、わけを伺えますか。月謝のご負担でしたら、相談の道も」
「いえ。お恥ずかしい話、銭金のことじゃございません」
主人はしばらく黙って、膝の上の手を、握ったり開いたりした。言いにくいことを言う前の、堅気の男の手つきだった。
「先生はお若いから、お笑いになるかもしれませんが」
「笑いません」
「手前の姪に、それは字の達者な娘がおりました」
ぽつり、ぽつりと、主人は語った。読み書きも算盤も、そこいらの男は顔負けの娘だった。自慢の姪だった。それが年頃になって、縁談が来るたびに、決まって先方から断りが入る。女のくせに理屈を言うそうだ、学問を鼻にかけているそうだ――と、会ったこともない世間の口が、そう言った。三度流れて、四度目からは、話そのものが来なくなった。
「姪が何ぞ、生意気を言ったわけじゃございません。ただ、できた、というだけのことで。……できる、ということがですな、先生。女には、疵になることがございます。世間様の目は、そういうふうにできておりますんで」
主人は、そこで初めて目を伏せた。
「たかが可愛くないから、やめさせるんじゃございません。可愛いから、でございます。……親莫迦と、お笑いくださって結構で」
笑えるはずが、なかった。
「学制の、御定めでは」
と、誠一は言った。言いながら、その先の文句が口の中で乾いていくのが、自分でわかった。
「男女の別なく、学ばせるように、と」
「へい。ごもっともでございます。お上に楯突くつもりは、毛頭ございません」
主人は、また深々と頭を下げた。
「ですが先生。縁談の席には、お上は座ってくださいませんので」
誠一は、返す言葉を持たなかった。
どこかが、間違っている。それだけは、思った。だがその間違いは、この人が拵えたものではない。世間という、誰のものでもない大きなものの間違いを、この実直な男は娘の身代わりに背負って、畳に手をついている。それを言い負かす文句は、教則のどこにも書いていなかった。
暇を告げて立つとき、誠一はもういちど、奥の暖簾に目をやった。たかの姿は、もうなかった。ただ、暖簾ぎわの板の間に、古い帳面が一冊、伏せてある。商いの控えの、使い終いらしい帳面である。めくれた端の裏に、細い字がびっしりと並んでいるのが、ちらりと見えた。
いろは、である。
見えたのは、それだけだった。
主人は、店先まで送りに出た。敷居ぎわで足を揃え、もういちど、丁寧に頭を下げる。上げた顔が、ふと、迷った。
「……先生。つかぬことを伺いますが」
「はい」
「学校というところは……子供には、面白うございますか」
訊いてから、主人は自分の問いに狼狽したらしかった。いや、と手を振り、商人の顔に戻って、余計なことを伺いました、と笑った。
「面白い、と思います」
誠一は、それだけ答えた。それ以上の返事は、持ち合わせがなかった。主人は、へい、とも、そうですか、ともつかぬ相槌を打って、目を往来へ逃がした。
誠一は辞儀をして、店を出た。
表通りは、夕方の買い物客で賑わいはじめていた。帰り道の誠一は、往来の音を聞きながら、勧められた座布団と、茶の熱さばかり思い出していた。追い返されたのではない。丁重にもてなされて、丁重に断られた。それだけに、取りつく島が、どこにもなかった。
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