第4話 赤葡萄亭のよく喋る帳面
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
昼は魔術師ギルドの魔導基盤保守班で働き,夜は王立魔導大学院の夜間課程に通う若手保守技師レクト・ノーウェル. 彼はギルドの廃棄倉庫で,旧式の喋る魔導書アルカを拾う. アルカは古文書や事故記録の照合に異常な強さを持つが,現場感がない. レクトには現場で拾う違和感があるが,過去記録への到達手段が足りない. 二人は互いの欠けを補い,生活記録,現場記録,雑談,失敗記録を積み上げながら,魔法世界の未解明問題に名前をつけていく.
本文
翌朝,俺は赤葡萄亭の椅子で目を覚ました.
目の前には,冷めかけた豆スープと,まだ一口も減っていない硬めのパンがある.窓の外は薄明るい.つまり,俺は朝食を取りに来て,食べる前に落ちたらしい.
「レクト,あんた,うちを宿屋と勘違いしてないかい」
頭上から降ってきた声に,俺は背筋を伸ばした.店主のロッサが,腰に手を当てて立っている.赤葡萄亭の朝は早い.夜勤明けの門番,市場へ向かう商人,工房職人,俺のような寝不足のギルド職員が,安い朝飯を求めて集まるからだ.
「すみません.食べます」
「食べる前に寝るやつがあるかい」
《休息不足による短時間の意識断絶です》
鞄の中から声がした瞬間,店内の数人がこちらを見た.
ロッサは目を細めた.
「何だい,そのよく喋る帳面は」
《私は帳面ではありません.書庫照合補助具です》
「字を書いて喋るなら帳面だよ」
《分類が粗いです》
「朝飯屋の分類なんて,食えるか食えないかで十分だ」
店内に笑いが起きた.俺はパンをちぎりながら,鞄を膝の上に置いた.
「アルカ,ここでは小声で頼む」
《承知しました.小声で発話します》
「小声の宣言がもう大きい」
赤葡萄亭は,王都の東寄りの通りにある安食堂だ.壁は煤け,卓は傷だらけで,椅子の足は一本ずつ違う.だが,豆スープは熱く,パンは安く,ロッサは客の顔色をよく見ている.
俺が夜間課程に通うようになってから,朝はだいたいここだった.ギルドへ行く前に腹に何か入れないと,午前中の点検で手が震える.
「で,レクト.昨日,北棟で何かあったんだって?」
ロッサは鍋をかき混ぜながら言った.
「もう広まってるんですか」
「夜勤明けの門番が,灯火が一瞬落ちたって言ってたよ.あんたのギルドの北側,青く光ったって」
「小規模な結界枝線の自己閉鎖です.怪我人はなし」
「怪我人なしなら,まずはよかった」
その言い方が,ギルドの事故記録よりも先に来るものを思い出させた.被害額でも手順違反でもなく,まず人が無事だったか.
《補足します.人払いがなければ,軽度から中度の魔力酔いが発生した可能性があります》
ロッサが鞄を見た.
「帳面,あんたはずいぶん物騒な補足をするね」
《物騒な事象でした》
「朝飯時には向かないね」
《では話題を変更します.この店内の雑談は典拠が不明で,研究記録としての価値は低いと推定されます》
店内が静かになった.
俺はパンを喉に詰まらせかけた.
「アルカ」
「へえ」
ロッサの声が一段低くなる.ガロン班長とは別の種類の低さだ.鍋の蓋を置く音が,やけに重い.
「じゃあ,低価値の雑談を一つ教えてやろうか」
《お願いします》
「昨日から東三区の市場で,保冷箱の氷符がやけに早く切れるって魚屋がぼやいてた.西通りのパン屋は,灯火柱が朝だけちらつくって言ってた.夜勤明けの門番は,北門の警鐘符が一拍遅れたってさ.どれもただの愚痴だね」
俺の手が止まった.
東三区.
今日,俺が点検する予定の灯火柱がある地区だ.
「ロッサさん,それ,誰が言ってました?」
「魚屋のベン.パン屋のリシャ.門番はダンだよ.三人とも,朝飯の文句のついでに言ってた」
《雑談の価値評価を保留します》
「遅いよ,帳面」
ロッサは鼻を鳴らした.
俺は豆スープを急いで飲み干した.胃に熱が落ちる.眠気が少しだけ剥がれた.
「アルカ,今の話を分けて記録する.保冷箱,灯火柱,警鐘符.地区と時間帯も」
《承知しました.ただし,証言は非公式であり,確認が必要です》
「分かってる.でも,確認する価値はある」
ロッサが俺の前に,香草入り卵焼きを小皿で置いた.
「食べてから行きな.寝不足の技師が走ると,街より先に本人が壊れる」
「払います」
「今朝の分は,昨日怪我人を出さなかった祝いだよ」
《贈与記録として残しますか》
ロッサがにっこり笑った.
「帳面,それを記録したら次は皿洗いだ」
《記録しません》
「判断が早いな」
俺は卵焼きを口に放り込み,立ち上がった.店を出る直前,ロッサが言った.
「レクト」
「はい」
「あんたらは難しく言うけどね,毎朝ここで同じ顔を見てりゃ,街の調子くらい分かるんだよ」
その言葉は,講義室の黒板よりも粗く,けれど妙に強かった.
赤葡萄亭を出ると,東の空が白んでいた.王都の灯火柱が,夜から朝へ役目を渡すように一つずつ光を落としていく.
その中で,東三区へ続く通りの一本だけが,ほんのわずかに遅れて消えた.
《レクト,今の遅延を記録しますか》
「する」
俺は一度,通りの端に立ち止まった.朝の王都は忙しい.荷車が軋み,市場へ向かう人々が足早に通り過ぎ,店先では水を撒く音がする.その全部の中で,灯火柱一本の消灯が少し遅れたことなど,普通なら誰も気にしない.
だが,さっきロッサが言ったばかりだ.毎朝同じ顔を見ていれば,街の調子が分かる.なら,毎朝同じ灯火を見ている保守技師が,その遅れを「気のせい」で捨てていいはずがない.
《遅延時間は短く,単独では警告値に達しません》
「分かってる.単独ではな」
《では,生活記録との接続候補として保持します》
「そうしてくれ」
アルカが少しずつ,雑談を雑音として捨てなくなっている.俺も,灯火柱のわずかな遅れを,ただの朝の癖として見逃せなくなっていた.
「アルカ,赤葡萄亭の話と今の消灯遅延を同じ欄に入れるなよ」
《理由を確認します》
「同じ原因だと決めたわけじゃない.同じ朝に見えた,というだけだ」
《承知しました.同一原因ではなく,同時刻帯の未確認記録として保持します》
「それでいい」
通りの向こうで,パン屋の煙突から細い煙が上がり始めた.魚屋の荷車が市場へ入っていく.灯火柱はもう消えているのに,人の生活はむしろ明るくなっていく.俺はその流れを見ながら,今朝の赤葡萄亭で聞いた名前を一つずつ思い出した.ベン,リシャ,ダン.
ただの証言者ではない.全員,この朝の中で働いている.彼らの困りごとは,灯火柱の数値より先に顔へ出るのかもしれない.
《レクト,出勤時刻が迫っています》
「分かってる.記録したら行く」
《朝食は完了しています》
「そこは報告しなくていい」
《観測者条件です》
俺は小さく笑い,記録板に最後の一行を足した.朝食あり,睡眠不足,赤葡萄亭証言あり.
俺は記録板を取り出した.
低価値の雑談は,もう低価値ではなかった.
店を出る時,ロッサが皿を拭きながら「明日も同じ席が空いてるとは限らないよ」と言った.俺は返事をしながら,席の位置,湯気の匂い,隣の卓の声の大きさまで思い出そうとした.昨日までなら全部まとめて朝食だったものが,今日は一つずつ条件に見える.面倒だ.だが,面倒になった分だけ,見落としは減る気がした.
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