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第5話 廃棄保留を提案します

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あらすじ

昼は魔術師ギルドの魔導基盤保守班で働き,夜は王立魔導大学院の夜間課程に通う若手保守技師レクト・ノーウェル. 彼はギルドの廃棄倉庫で,旧式の喋る魔導書アルカを拾う. アルカは古文書や事故記録の照合に異常な強さを持つが,現場感がない. レクトには現場で拾う違和感があるが,過去記録への到達手段が足りない. 二人は互いの欠けを補い,生活記録,現場記録,雑談,失敗記録を積み上げながら,魔法世界の未解明問題に名前をつけていく.

本文

東三区の灯火柱は,手順書の上では正常だった.

魔力流量,許容範囲内.

導線抵抗,許容範囲内.

点灯符の劣化,軽微.

周辺地脈の揺らぎ,平常よりやや高いが,警告値未満.

つまり,公式記録だけを見れば「異常なし」と書ける.

そう書けば,午前の仕事は早く終わる.

そして俺は,たぶん午後に後悔する.

「……朝だけちらつく,だったな」

俺は灯火柱の根元にしゃがみ込んだ.石畳の隙間に,市場から流れた魚の水が薄く入り込んでいる.嫌な匂いだ.だが,昨日の講義で散々言われた.現場記録を捨てるな.

《手順書上の異常は検出されていません》

アルカが鞄の中で言った.

「手順書上はな」

《追加観測を行う理由は,赤葡萄亭で得た非公式証言ですか》

「それと,消灯が遅れたのを俺が見た」

《観測者,レクト.証言者,魚屋ベン,パン屋リシャ,門番ダン.記録種別は未確認生活記録》

「生活記録って言うと,少し立派に聞こえるな」

《ロッサから怒られたため,雑談という分類を一時保留しました》

「学習が早い」

《皿洗いを回避するためです》

俺は笑いそうになりながら,柱の根元を拭った.泥水の下に,古い補修跡がある.石材の色が少し違う.記録板で照合しても,この補修は台帳に出てこなかった.

「未記録改修か」

《ギルド台帳に該当なし.ただし,古い地区では珍しくありません》

「珍しくないのが困るんだよ」

灯火柱の側面に手を当てる.かすかな熱が,柱の下から上へ流れている.普通は一定だ.だが,今は市場側から荷車が通るたび,ほんのわずかに揺れる.

原因は一つではない.

濡れた根元,未記録改修,朝の市場の魔道具使用,保冷箱の氷符.

どれも単独なら警告値未満だ.重なると,気持ち悪い.

俺は測定値を記録し,簡易の防湿符を根元に貼った.本格修理ではない.午後まで様子を見るための処置だ.

《処置理由をどう記録しますか》

「赤葡萄亭での証言,消灯遅延,未記録改修跡,根元の湿り.全部分ける」

《承知しました.なお,この形式は昨日の事故記録より改善されています》

「褒めてる?」

《はい.雑さが減少しました》

「褒め言葉の角が残ってる」

昼前,ギルドへ戻ると,北棟の事故はすでに「小規模な枝線停止」として処理されかけていた.怪我人なし,施設被害軽微,原因は老朽化の疑い.書類としては美しい.美しすぎて,昨日の焦げた匂いが消えている.

「レクト,班長が呼んでるぞ」

同僚に声をかけられ,俺は保守班の奥へ向かった.ガロンは机に事故記録を広げていた.俺の三枚の記録もある.

「上は偶然扱いにしたいらしい」

「偶然,ですか」

「怪我人が出ていない事故は,だいたい軽くなる」

分かっている.怪我人が出なかったことは良いことだ.だが,怪我人が出なかったから記録が薄くなるのは違う.

俺は東三区の記録を出した.

「今朝の点検です.手順書上は異常なしですが,赤葡萄亭で三件の証言がありました.保冷箱,灯火柱,警鐘符です.現場で未記録改修跡と根元の湿りを確認しました」

ガロンは黙って読んだ.

「また赤葡萄亭か」

「はい」

「飯屋の愚痴で手順を変える気か」

「まだ変えません.ただ,確認対象には入れたいです」

ガロンは記録板の端を指で叩いた.

「言い方を間違えるな.愚痴を根拠にした,では通らん.未確認証言をきっかけに追加観測した,なら通る」

「書き直します」

《提案があります》

鞄から声がした.ガロンの眉間が動く.

「まだいたのか,喋る帳面」

《廃棄保留を提案します》

部屋が一瞬静かになった.

「理由は」

《第一に,昨日の枝線事故において,旧式事故記録との照合が人払い判断の一部になりました.第二に,本日の東三区点検において,生活記録と現場記録の整理を補助しました.第三に,廃棄すると,これらの検証が継続不能になります》

「自分で自分の延命を提案するのか」

《はい.ただし,最終判断は管理責任者にあります》

「都合のいいところだけ規則を持ち出すな」

ガロンは渋い顔をしたが,記録から目を離さなかった.

「レクト」

「はい」

「一週間だ」

「え」

「その本の廃棄を一週間保留する.その間,お前の管理下で使え.ただし,判断責任はお前だ.本が言ったから,は通らん」

俺は背筋を伸ばした.

「分かりました」

《ありがとうございます》

「お前に礼を言われると,妙に腹が立つな」

《では撤回します》

「撤回するな」

午後,東三区の灯火柱から追加報告が来た.朝のちらつきは,防湿符を貼ってから止まっているらしい.原因確定ではない.だが,記録する価値はある.

俺は作業机に座り,事故記録の書き直しに取りかかった.

防いだ,ではない.

気づいた,でも足りない.

判断した条件を書け.判断しなかった条件も書け.

アルカは俺の横で,静かにページを開いていた.

《レクト》

「何だ」

《本日の記録を取り込んだ結果,昨日の枝線事故との共通点が一つ増えました》

「共通点?」

《どちらも,公式手順上の警告値に達する前に,生活側の小さな乱れが先行しています》

俺は筆を止めた.

生活側の小さな乱れ.

まだ名前にもならない言葉が,記録板の上に落ちた.

「それを上に出したら,笑われるな」

《可能性があります》

「赤葡萄亭の愚痴と警告値未満の測定値を並べるんだぞ」

《そのまま提出すれば,根拠が粗いです》

「だよな」

俺は記録板に,提出しない欄を作った.公式報告ではなく,自分用の欄だ.そこへ,ロッサの証言,市場の湿り,消灯遅延,保冷箱の氷符の減りを書き込む.まだつながっていない.つなげてはいけない.だが,離したまま捨てるのも惜しい.

《保留欄,ですか》

「そうだな.廃棄じゃなくて,保留」

《その分類には賛成します》

アルカの声が,少しだけ柔らかく聞こえた.

その夜,寮の机で保留欄を作ると,思ったより余白が広くなった.結論を急がないための場所は,白いままだと落ち着かない.俺はそこへ,小さな違和感,証言不足,後日確認,と三つの見出しを書いた.アルカはそれを黙って見ていたが,最後に一度だけ薄く光った.

「不満か」

《いいえ.分類名が増えました》

「嬉しそうに言うな」

《廃棄よりは適切です》

確かに,捨てるよりはましだ.そう思えたこと自体が,昨日までとは違っていた.

俺は箱のふたを閉じず,少しだけ開けておいた.明日もう一度見るためだ.閉じたままにすると,たぶん忘れる.保留は忘却ではない.

そう自分に言い聞かせて,灯りを落とした.

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ラカン

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