第8話 セリス教授の問い
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
昼は魔術師ギルドの魔導基盤保守班で働き,夜は王立魔導大学院の夜間課程に通う若手保守技師レクト・ノーウェル. 彼はギルドの廃棄倉庫で,旧式の喋る魔導書アルカを拾う. アルカは古文書や事故記録の照合に異常な強さを持つが,現場感がない. レクトには現場で拾う違和感があるが,過去記録への到達手段が足りない. 二人は互いの欠けを補い,生活記録,現場記録,雑談,失敗記録を積み上げながら,魔法世界の未解明問題に名前をつけていく.
本文
「あなたは事故を防いだのですか」
講義が始まってすぐ,セリス教授は俺にそう聞いた.
黒板にはまだ何も書かれていない.教室の全員がこちらを見ている.ユリウスに赤を入れられた事故記録は,俺の机の上で妙に重い.
「人的被害は防げました」
俺は慎重に答えた.
「問いに答えていません」
即座に切られた.
喉が乾く.
「事故そのものは,自己閉鎖として発生しました.俺がしたのは,事前に人払いをして,被害を避けたことです」
「では,事故を防いだのではない」
「はい」
その一言を認めるのに,思ったより力がいった.昨日から周囲は「防いだ」と言ってくれる.俺自身も,どこかでそう思いたかった.だが,枝線は切れた.壁は焦げた.北棟の一部は止まった.
防げていない.
間に合っただけだ.
セリス教授は黒板に二つの言葉を書いた.
事故防止.
被害回避.
「名前を間違えると,次の判断を間違えます」
白墨の音が響く.
「たまたま間に合っただけです.次も間に合わせたいなら,名前をつけなさい」
教室の空気が少し硬くなった.俺は記録板を開いた.
名前をつける.
ユリウスが言っていた定義と同じだ.
教授は続けた.
「名前は飾りではありません.観測対象を固定する釘です.何を見て,何を見ないのかを決めるものです」
ミナが前のめりになった.ユリウスは腕を組み,黒板を見ている.アルカは,鞄の中で音を立てずにページを開いた.
「ノーウェル,あなたが扱いたいものは何ですか」
「公式警告値に達する前の,小さな乱れです」
「乱れとは」
「……まだ広いです」
「では分けなさい」
俺は記録板を見た.これまでの記録が頭をよぎる.北棟の枝線音,東三区の灯火柱,赤葡萄亭の証言,警鐘符の遅れ,治癒術式の効きの鈍さ.
「現場で観測できる乱れ.生活の中で人が気づく乱れ.書庫記録と照合できる過去の乱れ」
「三つに分けた理由は」
「混ぜると,何を根拠に判断したか分からなくなるからです」
セリス教授はうなずかなかった.だが,否定もしなかった.
「では仮名を」
「仮名,ですか」
「今ここで」
無茶を言う.だが,研究はたぶん,こういう無茶を言葉にするところから始まる.
俺は記録板に書いた.
警告値未満の先行変化.
読んだ瞬間,自分でも固いと思った.
《説明的ですが長いです》
アルカが小声で言った.
「分かってる」
ユリウスが手を挙げた.
「警告値という語は,制度や媒介ごとに基準が違います.一般化するには危険です」
「では何ならいい」
「先行変化,は使えるかもしれない.ただし,何に先行するのかを定義すべきだ」
ミナも手を挙げた.
「生活の中で気づくものまで入れるなら,術式だけの言葉にしないほうがいいと思います.患者さんの『昨日から寒い』みたいな言葉も,形式は違うけど先に出ることがあるので」
俺は二人の言葉を書き足した.
何に先行するのか.
術式だけに閉じない.
セリス教授が言った.
「良いです.問いが分解され始めました」
褒められた気はしないが,前に進んだ気はした.
講義はそこから,名づけの危険へ移った.名前をつけると見えるものが増える.同時に,名前に合わないものを見落とす.教授は若い頃の詠唱省略理論にも触れた.
「短い詠唱は便利でした.便利なものは,人を急がせます」
一瞬,教室が静まり返った.
「面白い研究ほど,人を殺します」
その声には,講義ではない何かが混じっていた.
俺は記録板にそのまま書きかけて,手を止めた.この言葉は,ただの名言みたいに扱ってはいけない気がした.
講義後,俺は教授に呼び止められた.
「ノーウェル,今日の仮名は弱いです」
「はい」
「ですが,弱い名前は悪ではありません.弱いと分かっていれば,鍛えられます」
教授は俺の記録板を指した.
「次回までに,北棟事故と東三区灯火柱を同じ表で整理しなさい.列は,観測,証言,照合,判断,処置,結果」
「分かりました」
「それと,アルカ」
《はい》
「あなたは整理しすぎないこと」
《整理しすぎる,とは》
「人間が迷った痕跡を消すことです」
アルカは少し黙った.
《承知しました.迷いも記録対象に含めます》
「良い返答です」
帰り道,俺は赤葡萄亭へ寄った.夜の赤葡萄亭は朝とは違い,冒険者や工房帰りの職人で騒がしい.ロッサが煮込みをよそいながら言った.
「今日は寝る前に食べるんだよ」
「努力します」
《努力は安定した対策ではありません》
「帳面,あんたも食べられるなら豆を詰めるよ」
《遠慮します》
俺は煮込みを食べながら,記録板に仮名を書き直した.
先行乱れ.
生活先行記録.
失敗前記録.
どれもしっくりこない.
だが,名前を探しているという事実だけは,昨日までと違っていた.
店の隅で,冒険者の一人がぼやいた.
「最近,東の古井戸近くで方位針がずれるんだよな」
俺の手が止まった.
アルカのページも,同時に開いた.
「今すぐ聞きに行きますか」
《質問の条件が不足しています.相手の状況,酒量,疲労,発言時刻が不明です》
「酒量まで見るのか」
《証言の信頼性に影響します》
たしかに,冒険者の卓には空の杯が二つある.ただし,顔色を見る限り酔っているというより疲れている.ロッサは俺に目だけで合図した.今はやめておけ,という顔だ.
俺は記録板に「後で確認」とだけ書いた.
名前をつけたい.すぐに結びたい.だが,今日の講義で言われたばかりだ.名前は釘になる.雑に打てば,違うものまで固定してしまう.
《待機判断を記録しました》
「そこは記録するのか」
《珍しいため》
俺は少しだけむっとしたが,反論できなかった.
待つと決めると,逆に冒険者たちの会話がよく聞こえた.方位針の話はすぐに酒の文句へ流れ,そこから東門のぬかるみ,荷車の護符,古井戸の石蓋へと移っていく.どれもまとまりがない.だが,まとまりがないからこそ,現場で見た順番に近いのかもしれない.
《会話が拡散しています》
「拡散したまま残す」
《整理しないのですか》
「あとで聞く.今整理すると,俺が聞きたい形に変える」
アルカは少し黙った.
《迷いも記録対象,というセリス教授の指摘に合致します》
「そういうことにしておく」
ロッサが皿を下げに来た時,俺の記録板をちらりと見た.
「待てたじゃないか」
「子ども扱いですか」
「急いで聞くやつは,だいたい相手の話じゃなくて自分の答えを聞きたがってるんだよ」
その言葉も痛かったので,余白に残した.
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