第四章 学べぬ子②
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田。 型どおりの教え方にすがる気弱な仮教員・宮田誠一は、生徒一人ひとりの事情に触れるうち、手本だけでは掬えないものがあると知る。 元寺子屋の女師匠・いねの見守りを受けながら、迷いながらも、自分なりの「教える」を探し始める。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
二 古い往来物
翌る日の昼、誠一は職員室で、橘屋での顛末をいね先生に話した。
話しながら、どこで話をし損じたのか、自分でも探していた。探しても、見つからなかった。
「言い負かされたのなら、まだ、ようございました。あの人は……いい人なのです。私に座布団を出し、茶を出し、詫びて、頭を下げて。頭を下げるのは、こちらの役のはずでありますのに」
湯呑みの中の茶は、とうに冷めていた。
「規則の文句が、あの店では、一枚も通りませんでした」
いね先生は、繕い物の手を動かしながら、黙って聞いていた。聞き終えると針を置き、立って、棚の下の段から古い綴じ本を一冊、抜き出した。表紙が擦り切れて、書名はもう読めない。女子向けの、古い往来物である。手つきで、それが大事なものだと知れた。
「あたしが子供の時分はね、宮田先生」
いね先生は、表紙を手のひらで、ひと撫でした。
「女が手習いに通うのだって、いい顔はされなかったんだよ。あたしの生まれた家は、女に筆はいらない、飯炊きの邪魔になる、って家でさ」
初めて聞く話だった。
「近所の師匠さんがね、親の目を盗むみたいな顔をして、あたしに字を教えてくれた。この往来物は、その師匠さんの形見なのさ」
言いようは、湿っていなかった。遠くの空の天気の話でもするようだった。ただ、表紙を撫でる手だけが、いつもの世話焼きの手より、ゆっくりだった。
「五十年経って、看板が寺子屋から学校に変わってもさ。同じ壁にぶつかる子は、いるんだねえ」
「いね先生は……悔しく、なかったのですか」
「悔しいの何のって騒ぐ間は、なかったよ。覚えるほうが忙しくてさ」
と笑ってから、いね先生は、少しだけ真顔になった。
「ただねえ。隠れて覚えた字は、癖がつくんだ。……字の癖じゃないよ。人の癖さ。誰に見せるでもない字ばかり書いてるとね、書くことがそのまんま、隠しごとになっちまう」
帳面の裏の、びっしりと並んだいろはが、目の裏に浮かんだ。
「もういっぺん、行っといで」
いね先生は、往来物を棚の下の段へ戻しながら言った。
「今度は、規則の話じゃなくてさ」
その日の夕方、店じまい前の刻限に、誠一はふたたび橘屋の敷居をまたいだ。
表の棚は半分がた仕舞われて、主人は帳場で、その日の売り上げを検めているところだった。行灯の脇に算盤と大福帳。読み上げる声が、小さく聞こえる。商人の一日の、締めくくりの姿である。
主人は誠一に気づくと目を丸くしたが、追い返しはしなかった。大福帳を閉じ、また座布団が裏返され、また茶が言いつけられる。その段取りが済むのを、誠一は今度は、落ち着いて待った。
「二度もお運びいただくとは。……手前の話の、どこぞに落ち度がございましたか」
「いえ。今日は、学校の用で参ったのでは、ありません」
主人が、わずかに首を傾げた。
「昨日、お宅の板の間で、古い帳面を見ました。商いの控えの、お古のようでした」
主人の顔が、動きを止めた。
「めくれた端の裏に、いろはが書いてありました。手本なしで書いた字です。手本を見て書いた字か、そうでないかは、一目でわかります。私は、それを毎日見るのが商売ですので」
主人は、黙っていた。知らなかった顔ではない。知っていて、見ぬふりを続けてきた顔だった。
「たかさんは、独りで学んでおります。誰に言われもせず、隠れて。……学校をやめさせても、あの子は、やめないと思います。帳面の裏で、続けるだけです」
誠一は、膝の上で手を握った。ここから先は、教則のどこにもない文句である。
「私の知る人に、隠れて字を覚えた人がいます。その人が申しました。隠れて覚えた字は、癖がつくと。字の癖ではなく――書くことがそのまま、隠しごとになるのだと」
主人の目が、暖簾のほうへ動いた。
「昨日の、姪御さんのお話は、ごもっともなご心配だと思います。私には、世間様の目を変える力はございません。学問がたかさんの疵になるかならぬか、それも、請け合えません」
正直に言った。請け合える筋のものではないからである。
「ただ、いま現に、たかさんは書いております。それだけは、もう、もとには戻りません。であれば……であれば、その字に、朱を入れてやりたいのです。隠しごとの字のままにしておくのは、その、私は」
文句が、続かなかった。続きの言葉を探して、結局、口を出たのは思案の外の一言だった。
「もったいないのです」
言ってしまってから、商人の店で言う言葉ではなかったかと思った。だが主人は、笑わなかった。
長い沈黙があった。
茶を替えに出てきた女房が、盆を持ったまま、框の脇に立っていた。口は挟まなかった。ただ、亭主の袖の端を、指の先でそっとつまんだ。
主人は女房を見ず、暖簾を見ていた。暖簾の陰に、小さな影が、さっきからじっと動かずにいる。
「……たか」
主人が呼んだ。影が、びくりと縮んだ。
「おまえ、書くのが、そんなに好きか」
長い間があった。返事のかわりに、暖簾の陰で、小さく洟をすする音がした。
主人は天井を仰ぎ、それから、大きく息を吐いた。堅気の男が、長い勘定の末に算盤を置くときの息だった。
「……様子を、見ましょう」
絞り出すような声だった。
「白状いたしますとね、先生。手前も、あの帳面には、気づいておりました」
主人は、湯呑みに目を落とした。
「気づいて、見ぬふりをしておりました。取り上げてしまえば済む話を、それが、どうにも……できませんでした。親の性でございますなあ。やめさせたいのも親なら、書いているのを見て、つい口元がゆるむのも親で」
昨日、店先で「学校は面白いか」と訊いた男の顔が、そこにあった。この人は、はじめから二つに割れていたのだと、誠一はようやく気がついた。自分が動かしたのではない。とうに揺れていた秤の皿に、帳面の話が、最後のひと粒として載った。それだけのことだった。
「店が立て込む日は、休ませます。それから先生、もしも……もしもあの子が、学問を笠に着るような娘になりかけましたら」
「そのときは、私が叱ります」
言ってから、誠一は思わず付け足した。
「……叱るのは、あまり得手ではありませんが。いね先生という、恐ろしく確かな人が、隣におりますので」
主人の口元が、初めてゆるんだ。それから、あらためて居ずまいを直し、畳に手をついて、深々と頭を下げた。
「それでは、先生。……たかを、お頼み申します」
女房が、盆を抱えたまま、それに並ぶように辞儀をした。暖簾は、もう動かなかったが、その裾から、小さな足の指がのぞいていた。
誠一も、畳に手をついて、辞儀を返した。
二日ばかり後の、朝である。
出欠で、橋本、と呼ぶと、はい、と小さい声が返った。列の端の机に、たかがいる。風呂敷から出した帳面は真新しく、表紙にはまだ何も書いていない。
手習いの刻限、誠一はたかの机の脇で足を止めた。半紙の上に、いろはが並んでいる。帳面の裏で独り育った字は、思いのほか、しっかりしていた。ただ、どの字も少しずつ、身を縮めるように小さい。
誠一は朱筆をとって、いちばん良い一字の横に、大きく丸をつけた。
たかは半紙を見つめ、それから、隅で小さく頷いた。隣の列から、まつがそれをちらりと見て、自分の紙に戻った。留吉の講釈が、また聞こえてくる。
敷居は、またいでしまえば、ただの木である。
開け放した障子の向こうで、つくつく法師が、今日も鳴き替わっていた。
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