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第五章 型を破る子①

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/19 📚 シリーズ: 易知学校 手習い記 📝 3,230文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

明治九年、神田。 型どおりの教え方にすがる気弱な仮教員・宮田誠一は、生徒一人ひとりの事情に触れるうち、手本だけでは掬えないものがあると知る。 元寺子屋の女師匠・いねの見守りを受けながら、迷いながらも、自分なりの「教える」を探し始める。 ※本作は、生成AIを利用しています。

本文

 一 お手本の外

 十月に入ると、教場の朝は、板の間の冷えが足袋の裏から来るようになった。墨の匂いも、心なしか、ひきしまって立つ。手習いには、いい季節である。

 朝の出欠で、大野、と呼ぶと、はい、と間を置かずに声が返った。夏の初めにはひと呼吸遅れていた返事が、いまは名と当人の間に、隙間がない。

 手習いの刻限、誠一は机の間を、ゆっくりと歩いて回った。

 半紙の上に、いろは、が並んでいる。まつの字は、あいかわらず手数に無駄がない。一枚の半紙を隅まで使い、同じ字を辛抱強く重ねている。列の端では、たかが小さな字を書いている。小さいなりに、このごろは字の背筋が伸びてきた。朱で丸をつけた字から、伸びてくるのである。

 教場のいちばん後ろに、この秋から通い始めた子がいる。

 木村卯之助〈きむらうのすけ〉。数えで十一になる。裏通りの指物師〈さしものし〉の子で、歳の割に手が大きい。物心つく前から、木と道具に囲まれて育った手である。筆の持ち方を教えたとき、道具の持ち方だけは一度で覚えた。ものになる手だ、と思ったのを、誠一は覚えている。

 年下の子らに交じって、頭ひとつ大きい体で座っている。素読の声はまだたどたどしいが、それを恥じる様子はない。読めないものは読めない、と言い切る顔で、わかるまで訊く。教場での卯之助は、おおむね、そういう子だった。

 その卯之助の半紙の前で、足が止まった。

 いい字なのである。太く、まっすぐで、画の終いまで力が抜けていない。十一の子の字ではなかった。ただ――手本の字では、なかった。

「卯之助」

 誠一は、机の端に寄せられたままの手本の綴じ本を、半紙の横へ戻した。

「手本を、見ていないな。手本のとおりに、書きなさい」

「なんでです」

 間を置かずに返ってきた。卯之助は筆を置いて、誠一の顔をまっすぐに見上げている。読めないものは読めない、と言うときの、あの顔である。

「なんで、手本のとおりでなきゃならねえんです」

 近くの席で、くすくすと笑いが起きた。留吉が隣の子を肘でつついて、何やら囁いている。

「それは、決まりごとで……」

 言いかけて、やめた。

 決まりだから。その文句が一枚も通らなかった店先を、誠一は知っている。

「並べてみてくだせえ、先生」

 卯之助は、書いたばかりの半紙を、手本の綴じ本の横へ回して寄越した。

「おれの字のほうが、よっぽど、いい字だ」

「……どこが、いいと思うのだ」

 思わず、訊いていた。

「線が、生きてらあ」

 即答だった。

「手本の字は、恰好こそ揃ってるが、線が死んでる。うちの親父が削った板と、安普請の板くれえ、違わあ」

 教場が、静かになった。皆が、思い思いの顔をしている。留吉はにやりとしながら、耳だけはしっかりそちらへ向けている。まつが、筆を止めていた。半紙の上の自分の字を、じっと見下ろしている。列の端では、たかが、朱の丸のついた字と手本とを、かわるがわる見比べていた。

 誠一は、二枚の字を見比べた。

 卯之助の言い分は、半分、当たっていた。手本の字は整って、静かで、言われてみれば、どこか死んでいる。卯之助の字は、うるさいほど生きていた。

 手のひらに、汗が滲んだ。

 この手本の字を、誰が書いたのか。なんのために、なぞらせるのか。毎日教えてきて、考えたことが、なかった。

 それでも、と思った。手本をなぞって基本を身につけることの大切さは、ある。それは確かに、あるのだ。ただ、それを言うための持ち合わせが、決まりだから、の一枚しかない。

「……なるほど。一理、ある」

 誠一がそう言うと、教場が、小さくざわめいた。

「君の字が良く書けていることも、認める。だがな、卯之助。手本のとおりに書くことにも……基本を学ぶということにも、大切なわけが、ちゃんとあるのだ。あるのだが、それが君に伝わる言葉を、いまの私は、持っておらん」

 卯之助が、目をしばたたいた。

「だから、考えてくる。二、三日、待ってくれ。約束だ」

 言い終えてから、教師の言うことだったろうか、と思った。思ったところへ、留吉が噴き出した。

「先生が、宿題もらってやんの」

 教場が、どっと笑った。冷たい笑いではなかった。誠一も、仕方なく笑った。

「そうだ。私の宿題だ。……ほら、皆、手を動かしなさい」

 卯之助だけが、笑っていなかった。狐につままれたような顔で誠一を見上げ、それから、黙って筆を取り直した。書くのは相変わらず手本にない字である。ただ、書きながら一度だけ、手本の頁へ目を走らせたのを、誠一は見た。

 放課後の職員室で、ことの次第を話すと、いね先生は、使い古しの筆を水で洗っていた手を止めて、こちらを見た。

「――というわけで、その、宿題を、もらって参りました」

「いいねえ、それは」

「いいことが、ありますか。教師が生徒に問われて、その場で答えられなかったのです」

「決まりだから、で蓋をしておく手も、あったんだよ」

 いね先生は、洗った筆の水を切って、窓の桟に並べた。

「考えてくる、なんて言う先生を、あたしは、ほかに知らないねえ」

 褒められたのか、からかわれたのか、わからなかった。誠一は、少し迷ってから、正直に付け足した。

「それに……あの子の字のほうが、手本より生きて見えたのです。見えてしまったものは、仕方がありません」

「見えたかい」

 いね先生は、目を細めた。

「卯之助ちゃんの家は、裏通りの指物師さんだよ。腕は界隈でも評判でね。あの子は口を利くより先に、木っ端で遊んで育ったような子さ。学校に来たのも、この秋からだろう。お父っつぁんがね、これからは職人も、注文の書き付けひとつ人任せにはできない世の中だからって、ようやく通わせる気になったのさ」

「生意気な子、というわけでは……ないのですね」

「生意気なもんかね」

 いね先生は、急須を傾けて、誠一の前の湯呑みを新しい茶に替えた。

「あの子はね、生意気なんじゃなくて、自分の物差しを、もう持っちまってるだけだよ。十一で、木の善し悪しがわかるんだ。手前の目で見て、手前の手で確かめて、いいか悪いか決める――そういう躾で育った子に、決まりだから、ってのは、いちばん通らない文句さね」

 誠一は、湯呑みの中の湯気を見ていた。それから、思い切って訊いた。

「いね先生なら……なんと、答えられますか。なんで手本のとおりでなきゃならないのか、と訊かれたら」

「さあて、ねえ」

 いね先生は、本当に考える顔をした。考えて、あっさり言った。

「答えられないよ、あたしにも」

「いね先生にも、ですか」

「寺子屋の時分にはね、そもそも、そんなことを訊く子がいなかったのさ」

 いね先生は、繕い物の袋を膝に引き寄せながら言った。

「手本はね、師匠が子どもごとに書いたもんだよ。炭屋の子には炭の字、桶屋の子には桶の字。目の前で、自分のために書いてもらった字を、なぞるんだ。なんで、もへったくれも、ありゃしないさね」

「いまは、手本は、一冊であります」

「そうさね。楽になったよ」

 どちらの肩を持つのでもない言い方だった。それきり、いね先生は深追いをしなかった。

 誠一は、手控えの帳面を開いた。卯之助に返す言葉を、書き出してみるつもりだった。

 基本は大切である、と書いて、筆が止まった。なぜ、と横に書いて、また止まった。それきり、頁は白いままである。借り物の文句なら、いくらでも並ぶ。あの子に通る言葉が、出てこない。

 机の上に、手本の綴じ本がある。誠一はそれを開いて、いろは、を眺めた。

 整って、静かな字である。この字を誰が書いたのか、誠一は知らない。知らないままで教えて、今日まで、誰にも訊かれなかっただけなのである。

 知らないものを知らないままにして、言葉だけを探すから、出てこないのではないか。

 ふと、そう思った。卯之助の物差しは、木と道具の間で育ったものである。それなら、こちらから、見に行くほかあるまい。

 帳面に一行、明日の放課後、指物師の家を訪ねる、と書き付けて、誠一は筆を置いた。

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鞍雲

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