第五章 型を破る子①
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田。 型どおりの教え方にすがる気弱な仮教員・宮田誠一は、生徒一人ひとりの事情に触れるうち、手本だけでは掬えないものがあると知る。 元寺子屋の女師匠・いねの見守りを受けながら、迷いながらも、自分なりの「教える」を探し始める。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
一 お手本の外
十月に入ると、教場の朝は、板の間の冷えが足袋の裏から来るようになった。墨の匂いも、心なしか、ひきしまって立つ。手習いには、いい季節である。
朝の出欠で、大野、と呼ぶと、はい、と間を置かずに声が返った。夏の初めにはひと呼吸遅れていた返事が、いまは名と当人の間に、隙間がない。
手習いの刻限、誠一は机の間を、ゆっくりと歩いて回った。
半紙の上に、いろは、が並んでいる。まつの字は、あいかわらず手数に無駄がない。一枚の半紙を隅まで使い、同じ字を辛抱強く重ねている。列の端では、たかが小さな字を書いている。小さいなりに、このごろは字の背筋が伸びてきた。朱で丸をつけた字から、伸びてくるのである。
教場のいちばん後ろに、この秋から通い始めた子がいる。
木村卯之助〈きむらうのすけ〉。数えで十一になる。裏通りの指物師〈さしものし〉の子で、歳の割に手が大きい。物心つく前から、木と道具に囲まれて育った手である。筆の持ち方を教えたとき、道具の持ち方だけは一度で覚えた。ものになる手だ、と思ったのを、誠一は覚えている。
年下の子らに交じって、頭ひとつ大きい体で座っている。素読の声はまだたどたどしいが、それを恥じる様子はない。読めないものは読めない、と言い切る顔で、わかるまで訊く。教場での卯之助は、おおむね、そういう子だった。
その卯之助の半紙の前で、足が止まった。
いい字なのである。太く、まっすぐで、画の終いまで力が抜けていない。十一の子の字ではなかった。ただ――手本の字では、なかった。
「卯之助」
誠一は、机の端に寄せられたままの手本の綴じ本を、半紙の横へ戻した。
「手本を、見ていないな。手本のとおりに、書きなさい」
「なんでです」
間を置かずに返ってきた。卯之助は筆を置いて、誠一の顔をまっすぐに見上げている。読めないものは読めない、と言うときの、あの顔である。
「なんで、手本のとおりでなきゃならねえんです」
近くの席で、くすくすと笑いが起きた。留吉が隣の子を肘でつついて、何やら囁いている。
「それは、決まりごとで……」
言いかけて、やめた。
決まりだから。その文句が一枚も通らなかった店先を、誠一は知っている。
「並べてみてくだせえ、先生」
卯之助は、書いたばかりの半紙を、手本の綴じ本の横へ回して寄越した。
「おれの字のほうが、よっぽど、いい字だ」
「……どこが、いいと思うのだ」
思わず、訊いていた。
「線が、生きてらあ」
即答だった。
「手本の字は、恰好こそ揃ってるが、線が死んでる。うちの親父が削った板と、安普請の板くれえ、違わあ」
教場が、静かになった。皆が、思い思いの顔をしている。留吉はにやりとしながら、耳だけはしっかりそちらへ向けている。まつが、筆を止めていた。半紙の上の自分の字を、じっと見下ろしている。列の端では、たかが、朱の丸のついた字と手本とを、かわるがわる見比べていた。
誠一は、二枚の字を見比べた。
卯之助の言い分は、半分、当たっていた。手本の字は整って、静かで、言われてみれば、どこか死んでいる。卯之助の字は、うるさいほど生きていた。
手のひらに、汗が滲んだ。
この手本の字を、誰が書いたのか。なんのために、なぞらせるのか。毎日教えてきて、考えたことが、なかった。
それでも、と思った。手本をなぞって基本を身につけることの大切さは、ある。それは確かに、あるのだ。ただ、それを言うための持ち合わせが、決まりだから、の一枚しかない。
「……なるほど。一理、ある」
誠一がそう言うと、教場が、小さくざわめいた。
「君の字が良く書けていることも、認める。だがな、卯之助。手本のとおりに書くことにも……基本を学ぶということにも、大切なわけが、ちゃんとあるのだ。あるのだが、それが君に伝わる言葉を、いまの私は、持っておらん」
卯之助が、目をしばたたいた。
「だから、考えてくる。二、三日、待ってくれ。約束だ」
言い終えてから、教師の言うことだったろうか、と思った。思ったところへ、留吉が噴き出した。
「先生が、宿題もらってやんの」
教場が、どっと笑った。冷たい笑いではなかった。誠一も、仕方なく笑った。
「そうだ。私の宿題だ。……ほら、皆、手を動かしなさい」
卯之助だけが、笑っていなかった。狐につままれたような顔で誠一を見上げ、それから、黙って筆を取り直した。書くのは相変わらず手本にない字である。ただ、書きながら一度だけ、手本の頁へ目を走らせたのを、誠一は見た。
放課後の職員室で、ことの次第を話すと、いね先生は、使い古しの筆を水で洗っていた手を止めて、こちらを見た。
「――というわけで、その、宿題を、もらって参りました」
「いいねえ、それは」
「いいことが、ありますか。教師が生徒に問われて、その場で答えられなかったのです」
「決まりだから、で蓋をしておく手も、あったんだよ」
いね先生は、洗った筆の水を切って、窓の桟に並べた。
「考えてくる、なんて言う先生を、あたしは、ほかに知らないねえ」
褒められたのか、からかわれたのか、わからなかった。誠一は、少し迷ってから、正直に付け足した。
「それに……あの子の字のほうが、手本より生きて見えたのです。見えてしまったものは、仕方がありません」
「見えたかい」
いね先生は、目を細めた。
「卯之助ちゃんの家は、裏通りの指物師さんだよ。腕は界隈でも評判でね。あの子は口を利くより先に、木っ端で遊んで育ったような子さ。学校に来たのも、この秋からだろう。お父っつぁんがね、これからは職人も、注文の書き付けひとつ人任せにはできない世の中だからって、ようやく通わせる気になったのさ」
「生意気な子、というわけでは……ないのですね」
「生意気なもんかね」
いね先生は、急須を傾けて、誠一の前の湯呑みを新しい茶に替えた。
「あの子はね、生意気なんじゃなくて、自分の物差しを、もう持っちまってるだけだよ。十一で、木の善し悪しがわかるんだ。手前の目で見て、手前の手で確かめて、いいか悪いか決める――そういう躾で育った子に、決まりだから、ってのは、いちばん通らない文句さね」
誠一は、湯呑みの中の湯気を見ていた。それから、思い切って訊いた。
「いね先生なら……なんと、答えられますか。なんで手本のとおりでなきゃならないのか、と訊かれたら」
「さあて、ねえ」
いね先生は、本当に考える顔をした。考えて、あっさり言った。
「答えられないよ、あたしにも」
「いね先生にも、ですか」
「寺子屋の時分にはね、そもそも、そんなことを訊く子がいなかったのさ」
いね先生は、繕い物の袋を膝に引き寄せながら言った。
「手本はね、師匠が子どもごとに書いたもんだよ。炭屋の子には炭の字、桶屋の子には桶の字。目の前で、自分のために書いてもらった字を、なぞるんだ。なんで、もへったくれも、ありゃしないさね」
「いまは、手本は、一冊であります」
「そうさね。楽になったよ」
どちらの肩を持つのでもない言い方だった。それきり、いね先生は深追いをしなかった。
誠一は、手控えの帳面を開いた。卯之助に返す言葉を、書き出してみるつもりだった。
基本は大切である、と書いて、筆が止まった。なぜ、と横に書いて、また止まった。それきり、頁は白いままである。借り物の文句なら、いくらでも並ぶ。あの子に通る言葉が、出てこない。
机の上に、手本の綴じ本がある。誠一はそれを開いて、いろは、を眺めた。
整って、静かな字である。この字を誰が書いたのか、誠一は知らない。知らないままで教えて、今日まで、誰にも訊かれなかっただけなのである。
知らないものを知らないままにして、言葉だけを探すから、出てこないのではないか。
ふと、そう思った。卯之助の物差しは、木と道具の間で育ったものである。それなら、こちらから、見に行くほかあるまい。
帳面に一行、明日の放課後、指物師の家を訪ねる、と書き付けて、誠一は筆を置いた。
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