不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>自動ドアが左右に開くと、冷房の効いた乾いた空気が絢斗の頬を撫でた。</p><p>エントランスの床は鏡のように磨き上げられ、そこに映る自分の姿は、どこからどう見ても「清潔感のある、有能で物静かなシステムエンジニア」そのものだった。</p><p>ゲートに社員証をかざすと、ピッという軽快な電子音が響く。</p>
本文
自動ドアが左右に開くと、冷房の効いた乾いた空気が絢斗の頬を撫でた。
エントランスの床は鏡のように磨き上げられ、そこに映る自分の姿は、どこからどう見ても「清潔感のある、有能で物静かなシステムエンジニア」そのものだった。
ゲートに社員証をかざすと、ピッという軽快な電子音が響く。
「おはようございます、成瀬さん」
受付の女性がにこやかに釈釈として一礼する。絢斗は口角を左右に対称に引き上げ、完璧な角度の会釈を返した。
「おはようございます。今週もよろしくお願いします」
声のトーン、速度、抑揚。すべてが何百回もの実践を経てチューニングされた「無害な青年」のそれだった。誰も絢斗のこの声を聞いて、彼がほんの数分前まで、自分が電車内で一人の女性の肋骨を粉砕し、死に至らしめたのではないかという妄想に囚われ、喉をかきむしりたいほどの衝動に駆られていたなどとは夢にも思わないだろう。
エレベーターに乗り込み、自社がワンフロアを占める八階へと向かう。金属の壁に囲まれた密室の中で、絢斗はそっと胸ポケットのスマートフォンに触れた。先ほど検索した『劇症型結核』や『車内接触 死亡事故』のタブを消去しなければならない。もし万が一、誰かに画面を見られたら。あるいは、自分が突然倒れてスマートフォンが警察に没収されたとき、こんな検索履歴が残っていたら、それだけで「異常者」の烙印を押され、香織の人生まで泥を塗ることになる。
絢斗は指先を微かに震わせながらブラウザの履歴をすべて消去し、キャッシュまで完全にクリアした。これで、証拠は消えた。しかし、脳裏に焼き付いた不安の残像だけは、消しゴムで擦った鉛筆の跡のように、黒く滲んだまま残っている。
八階のオフィスに足を踏み入れると、すでに数十人の社員がデスクに向かい、キーボードを叩く無機質な音がパチパチと空間を支配していた。
「おはようございます」
絢斗が声をかけると、周囲から「あ、成瀬くんおはよう」「おはよう、成瀬さん」と、好意的な視線が返ってくる。成瀬絢斗という男は、このオフィスにおいて一種の「心のオアシス」のような扱いを受けていた。どれほど急な仕事を振られても嫌な顔一つせず、他人のミスを手際よくカバーし、決して愚痴を言わない。誰もが彼を「育ちの良い、本当に優しい人」だと評していた。
だが、絢斗自身にとって、その「優しさ」はただの防衛服に過ぎなかった。
他人に怒りをぶつけたり、不快感を示したりすることは、絢斗の脳内においては「相手を致命的に傷つける暴挙」であり、同時に「自分の中のモンスターを解き放つトリガー」を意味していた。だから、彼は笑う。怒るという選択肢を最初から去勢された生き物のように、ただ微笑み続けるしかなかった。
自身のデスクに座り、PCを起動する。
ここから、絢斗のもう一つの「地獄の儀式」が始まる。業務としてのシステムデバッグと、ソースコードの確認作業だ。
まず、社内ネットワークにログインするためのパスワードを入力する。大文字、小文字、数字、記号。絢斗はそれらを慎重にタイピングしたが、Enterキーを押す直前で指が止まった。
(待てよ。いま、本当に『4』のキーを押しただろうか。隣の『3』のキーに指の腹が触れて、二重入力になっていないか? もし間違ったパスワードが何度も送信され、セキュリティシステムが作動して、社内全体のサーバーがダウンしたら? 今日予定されている大規模なアップデートが遅延し、会社に数千万円の損害が出たら?)
額に微かな汗が浮かぶ。絢斗は一度バックスペースキーを連打して入力欄を完全に空にし、もう一度、今度は一文字ずつ、指の動きを目視で確認しながら打ち直した。
「よし、入れた。間違いない」
画面が切り替わり、デスクトップが表示される。しかし、胸の奥のモヤモヤは晴れない。Enterキーを押したあの瞬間の手の感触が、すでに記憶の中で不確実なものへと変質し始めているのだ。本当に大丈夫だったか? 僕は何か致命的なエラーを見落としていないか?
続いて、今日提出する予定のバグ修正プログラムの確認に入る。
絢斗が担当しているのは、医療機関向けの管理システムのデバッグ作業だった。皮肉なことに、彼の「異常なまでの確認癖」は、仕事の正確さという意味では高く評価されていた。成瀬のチェックを通ったコードには一切の不具合がない、と。
しかし、その実態は壮絶だった。
画面に並ぶアルファベットと記号の羅列。絢斗はその一行一行を、カーソルでなぞりながら音読に近い形で脳内に叩き込んでいく。
(この変数宣言。もしセミコロンが全角になっていたら? コンパイルエラーが出るはずだが、もしシステムのバグでコンパイルをすり抜けてしまったら? そのプログラムが病院のサーバーに組み込まれ、薬剤の投与量の計算を誤認させたら? 患者が致死量の薬を投与されて、死んでしまったら――)
「成瀬、ちょっといいか」
背後から、湿度の低い、ねちっこい声が降ってきた。
絢斗の身体がビクリと跳ねる。椅子の背もたれをきしませながら振り返ると、そこには開発チームの責任者である上司が、苦虫を噛み潰したような顔で立っていた。手には、数枚のプリントアウトされた書類が握られている。
「これ、お前が先週レビューした、Bチームの仕様書なんだけどさ」
上司は絢斗のデスクに、バサリと書類を乱暴に放り投げた。
「クライアントから、要件が全然反映されてないってクレームが入ったんだよ。Bチームの奴らがアホなのはいつものことだけど、お前、レビューの段階でなんでこれに気づかなかったんだ? お前のチェック、ザルなんじゃないの?」
その言葉は、あからさまな責任転嫁だった。
その仕様書の最終確認は、上司自身が判子を押してクライアントに提出したものだ。しかも、Bチームがクライアントの追加要望を絢斗の共有フォルダに入れ忘れていたことが根本の原因であり、絢斗には何の落ち度もないはずだった。
デスクの数個隣に座る先輩の五味が、タイピングする手を止め、不快そうに上司へと視線を向けたのが分かった。オフィスの空気が、一瞬でピりつく。
だが、絢斗の脳が選んだ反応は、謝罪だった。
「――申し訳ありません」
絢斗の顔に、驚くほど自然な、申し訳なさそうな「笑顔」が浮かび上がった。彼の感情のシャッターは、上司の声を聞いた瞬間に完全に下りていた。心の中の「本物の成瀬絢斗」は深い暗闇の底へと引きこもり、表面にいる「人形」が、プログラミングされた通りに動き出す。
「僕の確認が不足していました。Bチームの最新の変更履歴を、もっと厳密に追うべきでしたね。すぐに修正案を作成し、Bチームのリーダーとも連携をとって、今日中にクライアントへ再提出できる状態にします。本当に、お手数をおかけしてすみません」
一切の反論も、不満の色もない。非の打ち所がないほど従順で、へりくだった態度。
上司は、絢斗のそのあまりにも潔い――悪く言えば手応えのない――態度に、少し拍子抜けしたような顔をした。これだけ理不尽に責め立てれば、少しは言い訳をしたり、暗い顔をしたりするものだが、絢斗の瞳には濁り一つないように見えたからだ。
「……チッ、まぁ、分かればいいんだよ。今日中だからな。二度と同じミスするなよ」
上司はそれだけ言い残すと、踵を返して自分の席へと戻っていった。
オフィスの空気が弛緩する。絢斗は上司の背中に向けてもう一度小さく頭を下げ、それから何事もなかったかのようにPCの画面に向き直った。彼の心は、完全に無風だった。怒りも、悔しさも、悲しみも、何も湧いてこない。
(怒ってはいけない。もし僕がここで『それは僕のせいではありません』と言い返したら、上司はプライドを傷つけられ、このオフィスでの居場所を失うかもしれない。僕の一言が、あの人の家庭や人生を壊すきっかけになるかもしれない。だから、僕が全部悪いということで終わらせるのが、一番正しいんだ)
感情を完全に麻痺させた絢斗は、再びキーボードに指を置いた。しかし、その指は、先ほどよりも目に見えて激しく震えていた。
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