不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>背後から聞こえていた上司の革靴の音が、パーテーションの向こうへと消えて完全に途絶えた。</p><p>オフィスを包む空気は、まるで冷水に浸された布のように重く冷え切っている。絢斗はしばらくの間、画面に並んだバグ修正のコードを見つめたまま、彫刻のように微動だにしなかった。</p><p>自身の輪郭が、世界の境界線からじわじわと滲んで消えていくような感覚があった。</p>
本文
背後から聞こえていた上司の革靴の音が、パーテーションの向こうへと消えて完全に途絶えた。
オフィスを包む空気は、まるで冷水に浸された布のように重く冷え切っている。絢斗はしばらくの間、画面に並んだバグ修正のコードを見つめたまま、彫刻のように微動だにしなかった。
自身の輪郭が、世界の境界線からじわじわと滲んで消えていくような感覚があった。
上司に罵倒されていた間の記憶が、まるで他人の映画を早送りで見せられたかのように不鮮明だ。胸を突くような痛みも、不当に扱われたことへの憤りも存在しない。ただ、冷房の吹き出し口から降りてくる乾いた風の音が、やけに鼓膜の奥で大きく反響していた。
(これでいいんだ。僕が頭を下げて、僕が全部引き受ければ、このオフィスの秩序は保たれる)
深呼吸をしようとして、絢斗はまたしても途中で胸の動きを止めた。肺を大きく膨らませるという行為そのものが、自分の内側に潜む「何か」を刺激しそうで怖かった。
「……おい、成瀬」
不意に、すぐ隣の席から低く抑制された声が投げかけられた。
絢斗は弾かれたように顔を上げ、声の主へ視線を向けた。先輩の五味だった。三十代後半の彼は、デスクの上のマグカップを指先で弄びながら、眼鏡の奥の鋭い目を絢斗に向けていた。その表情には、明らかな苛立ちと、それ以上に深い困惑が混ざり合っている。
「五味さん、どうかしましたか?」
絢斗は即座に答えた。先ほど上司に向けていたものと寸分違わぬ、穏やかで人当たりの良い笑みが、オートマチックにその唇に形成される。
五味は小さくため息をつくと、椅子のキャスターを転がして絢斗のデスクへと近づいてきた。周囲に声が漏れないよう、さらにトーンを落とす。
「どうかしたのはお前の方だよ。さっきのあれ、どう考えてもBチームの連絡ミスだろ。お前が共有フォルダをチェックしなかったのが悪いんじゃなくて、奴らがログを更新したことを通知しなかったのが100パーセント悪い。なんであんな言い掛かりに、お前が全部泥を被るような謝り方をするんだ?」
五味の言葉は正論であり、絢斗の味方としての純粋な義憤だった。普通の人間の心なら、その言葉によって少しは救われ、上司への愚痴の一つでもこぼすところだろう。
だが、絢斗の脳は、その「リアルな怒り」を即座に拒絶した。五味から向けられた温かい気遣いが、絢斗の心に触れた瞬間に凍りついていく。
「いえ、そんなことはありませんよ」
絢斗は首を小さく横に振った。笑顔の強度は、一ミリも揺るがない。
「確かにBチームの通知漏れはありましたけど、僕がプロフェッショナルとして、念のために変更履歴のログを自発的に巡回していれば防げたミスです。僕の確認不足、不注意ですよ。上司が怒るのも当然です」
「お前なぁ……」
五味は呆れたように眉根を寄せ、マグカップをデスクにゴンと少し強めに置いた。
「それはプロフェッショナルじゃなくて、ただの奴隷根性だ。お前、いつもそうだろ。誰かがミスした時も、上司が理不尽に機嫌を悪くしている時も、全部自分が悪いって顔をして、ニコニコしながら仕事を引き受ける。お前が折れれば丸く収まると思ってるのかもしれないが、見てるこっちが息苦しくなるんだよ」
五味の言葉は、絢斗の「仮面」の裏側をかすかに引っ掻いた。
絢斗は椅子の肘掛けを握る手に、無意識に力を込めた。爪が布地に食い込む。
(息苦しくさせている。僕のこの態度が、五味さんを不快にさせているんだ。僕の存在そのものが、このオフィスの健全な空気を濁らせている……)
向けられた正当な指摘すらも、絢斗の脳は即座に「自分への攻撃」ではなく「自分が周囲に害をなしている(加害)」というロジックへ変換してしまう。
「すみません、気をつけます」
絢斗はさらに深く頭を下げた。どこまでも低姿勢で、どこまでも無害な。
五味はしばらくの間、そんな絢斗の様子を黙って見つめていたが、やがて諦めたように大きく肩を落とした。
「謝ってほしいわけじゃない。……お前、真面目すぎるぞ。真面目を通り越して、なんて言うか、時々不気味なくらい完璧に見える。完璧な人間なんてこの世にいねえんだからさ、もっと適当にやれよ。たまには『あの上司、マジでむかつきますね』とか、そういう愚痴を吐いたってバチは当たらねえよ。お前、本当にストレス溜まらないのか?」
「ストレスですか? 全然溜まりませんよ。僕は本当に、この仕事が性に合っているみたいですから」
絢斗は淀みなく嘘をついた。自分が毎夜、暗闇の中で恐怖に痙攣しながらスマートフォンを叩いていることなど、この世の誰にも明かせるはずがなかった。
五味は「そうかよ」と短く吐き捨てると、それ以上は何も言わず、自分のディスプレイへと向き直った。キーボードを叩く五味の音が、先ほどよりも少しだけ激しくなったように感じられた。絢斗を心配するあまりの、五味なりの不器用な怒りだった。だが、絢斗はその熱にすら耐えられず、ただ自分の内側へ、内側へと引きこもっていく。
五味が離れていったことで、絢斗は物理的な安全を確保したはずだった。現在のリアルな衝突(五味との話し合いや、上司への怒り)からは、完璧に逃げ切ったはずだった。
しかし、その瞬間、絢斗の胸の奥で、せき止められていた「代償」の波が一気に跳ね上がった。
現実のストレスに向き合わなかったツケが、すべて強迫観念の燃料として脳内へ逆流してきたのだ。
ドクン、と心臓が異常な高鳴りを見せた。
(あ、おかしい)
胸のあたりが、急にジリジリと熱を帯び始める。先ほど上司に叱責され、五味に嘘の笑顔を向けたその一連の動作のせいで、自分の体内で「何か」が壊れたような感覚がした。
(今の動悸は何だ? 脈拍が急激に上がっている。さっき電車の咳を吸い込んだせいで、何らかの急性ウイルスが心筋に達したんじゃないか? 心筋炎か? あるいは、大動脈解離の初期症状か?)
絢斗は左手をそっと胸元にあて、衣服越しに心臓の鼓動を測ろうとした。
一分間に何回打っている? 規則正しいか? 途中で脈が飛んでいないか?
(もしここで僕が急性心不全で倒れたら。救急車が呼ばれ、このオフィスは大騒ぎになる。今日のアップデート作業は完全にストップする。僕一人が体調管理を怠ったせいで、何十人もの同僚の努力が無に帰すんだ。それだけじゃない、もし僕が運ばれた病院で死んだら、香織はどうなる? 彼女に一生のトラウマを植え付けることになる。僕はまた、自分の体を使って人を傷つけようとしている――)
心気症の恐怖が、瞬時に加害恐怖へと結びつき、絢斗の思考を完全にロックした。
視界の端がチカチカと明滅し始める。彼は恐怖を打ち消すために、今すぐPCのブラウザを開いて『三十代男性 突然の動悸 心筋炎の確率』と検索したくてたまらなくなった。指が勝手にマウスへと伸びる。
だが、オフィスの白日の下で、それをやるわけにはいかない。五味が見ている。周囲の目が光っている。
絢斗は必死に検索したい衝動(強迫行為)を抑え込み、代わりに、先ほど上司から投げ渡されたBチームの仕様書に目を落とした。
画面上のソースコードを修正しなければならない。それが今、自分が「まともな人間」としてここに留まるための唯一の免罪符だった。
絢斗はキーボードに両手を置いた。しかし、彼の指先は、自分の意志とは無関係に、細かく、小さく、まるで寒さに震える小鳥のように震え続けていた。
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