不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>午後三時十五分。オフィスの窓外には、梅雨のどんよりとした灰色の雲が低く垂れ込め、細かい雨が執拗にガラスを叩いていた。</p><p>室内は蛍光灯の白い光で均一に照らされているが、絢斗のデスクの周りだけは、まるで重力が局所的に歪んでいるかのように、濃密で息苦しい空気が停滞していた。</p><p>「……よし、これで、修正は終わった。はずだ」</p>
本文
午後三時十五分。オフィスの窓外には、梅雨のどんよりとした灰色の雲が低く垂れ込め、細かい雨が執拗にガラスを叩いていた。
室内は蛍光灯の白い光で均一に照らされているが、絢斗のデスクの周りだけは、まるで重力が局所的に歪んでいるかのように、濃密で息苦しい空気が停滞していた。
「……よし、これで、修正は終わった。はずだ」
絢斗は声に出さないよう、唇の動きだけでそう呟いた。
上司から突きつけられた、Bチームのミスによる仕様書の修正。通常のエンジニアであれば一時間もあれば終わる作業だった。しかし、絢斗がキーボードを叩き始めてから、すでに三時間が経過していた。時間が、恐ろしいほどの速度で溶けていく。それは怠惰によるものではなく、その真逆――脳内で行われる、終わりなき「検閲」のせいだった。
画面に表示された、たった三行の修正コード。
絢斗はその文字列を、もう何十回、何百回と見つめ直していた。
(文字コードはUTF-8になっているか? 誤ってShift-JISが混入していないか? もし文字化けが発生して、医療機関のデータベースがクラッシュしたら? 処方箋の履歴データがすべて消去され、現在進行形で手術を控えている患者の血液型情報が書き換わってしまったら? 適合しない血液が輸血され、患者はショック死する。僕の、この人差し指が叩いた一文字のせいで)
一度その疑念が脳内に割り込んでくると、どれだけ目視で「正しい」と確認しても、その「正しいという確信」自体が指の隙間から砂のようにサラサラと零れ落ちていく。
確認した。確かに確認した。五分前の僕は、完璧だと言っていた。
だが、今の僕は? 五分前の僕が、一瞬だけ意識を失って、無意識のうちにキーボードの『A』を空打ちしてしまった可能性は、本当に零%だと言い切れるだろうか。
「……もう一度だけ、確認しよう」
絢斗は小さく息を吐き、不自然に強張った右手を持ち上げた。オフィスの中で目立たないよう、人差し指を細かく動かし、画面の文字を一行ずつ、左から右へと物理的に割り箸でなぞるかのように追っていく。
「if、括弧、変数名、イコール、イコール……」
心の中で、呪文のようにコードを音読する。頭の芯が、過熱したPCのCPUのようにじりじりと熱い。額から流れた一本の汗が、眼鏡のフレームを伝ってレンズの端を汚した。視界が滲む。その滲みすらも、「バグを見落とす原因になるのではないか」という新たな恐怖の火種になる。
「成瀬くん、まだやってるの? 丁寧なのは良いことだけど、あんまり根を詰めないでね」
通りすがりの女性社員が、お菓子の小袋を絢斗のデスクの隅に置きながら、親切な声をかけていった。
「あ、ありがとうございます。助かります」
絢斗は反射的に顔を上げ、100パーセント完璧に調律された「無害で爽やかな笑顔」を彼女に向けた。その笑顔の裏側で、精神の防壁がボロボロと音を立てて崩れ落ちていることなど、彼女は知る由もない。女性社員が去った後、絢斗はそのお菓子のパッケージを見つめた。
(このお菓子、製造ラインで異物が混入している確率はどれくらいだろう。もし僕がこれを食べて、何らかの毒素が体内に回り、明日の朝、意識不明になったら……)
思考の触手が、あらゆる日常のオブジェクトに「死」と「破壊」の属性を付与していく。絢斗は静かにそのお菓子を、引き出しの奥へと仕舞い込んだ。
午後五時四十五分。
これ以上確認を続ければ、提出期限そのものを破るという別の「致命的な過失」を犯すことになる。絢斗は、自身の理性の最後の残骸を振り絞り、マウスの左ボタンをクリックした。修正ファイルを、本番用の共有サーバーへとアップロードする。
『アップロードが完了しました』
画面に表示された冷徹なシステムメッセージ。
その瞬間、絢斗の胸を襲ったのは、解放感ではなかった。底量れない「絶望」だった。
(送ってしまった。もう、取り消せない。僕の手から、あのプログラムが世界へと放たれてしまった。もし、もし本当に重大なエラーが残っていたら、明日、誰かが死ぬ。ニュースになる。警察が来る)
キーボードの上に置いた両手が、痙攣したように小刻みに震え始める。今すぐサーバーのファイルを自分のローカル環境にダウンロードし直し、もう一度、最初から確認したいという猛烈な衝動(強迫行為)が胃の底からせり上がってくる。
だが、それをやれば、隣の五味は完全に不審に思うだろう。上司からは「終わったと言ったのは嘘か」と罵倒される。これ以上、この職場の秩序を乱すわけにはいかない。自分というモンスターは、ここでは「完璧に無害な聖人」でい続けなければならないのだ。
「お疲れ、成瀬。俺はもう上がるわ」
五味が荷物をまとめ、椅子から立ち上がった。「あまり遅くなるなよ。お前のその『真面目さ』は、時々刃物みたいに見えるからな。自分を刺す前に帰れよ」
五味は冗談めかして言ったが、その言葉は絢斗の胸の最も深い場所に、深く突き刺さった。
(刃物。そうだ、僕は刃物なんだ。僕がここにいるだけで、みんなに気を遣わせ、空気を重くし、傷つけている)
「はい、五味さんもお疲れ様です。僕も、これを片付けたらすぐに帰ります」
絢斗は席を立ち、五味に向けて綺麗に一礼した。どこまでも模範的で、どこまでも不気味なほどに従順な後輩の姿。五味は少し割り切れないような表情を残し、オフィスの出口へと向かっていった。
午後七時。オフィスには数人の残業仲間しか残っていない。
絢斗はPCのシャットダウン処理を行った。画面が黒い静寂に包まれると、そこに、酷く疲れ果て、目の下にどす黒い隈を浮かべた一人の男の顔が映し出された。それが、成瀬絢斗の「本当の顔」だった。
デスクの上の書類を揃え、引き出しに鍵をかける。その鍵が本当に閉まったかどうか、絢斗はノブを三回、ガチャ、ガチャ、ガチャと引っ張って確認した。それでも不安で、もう一度引っ張った。周囲の残業社員がこちらを見ないか怯えながら、五回目、六回目の確認を行う。
(大丈夫だ。閉まっている。鍵は閉まった)
心の中でそう復唱し、バッグを抱えるようにして席を離れた。
オフィスの自動ドアを出て、エレベーターホールに向かう。
絢斗の一日は、これで終わったわけではない。むしろ、社会的な監視の目が消えるこれからが、本当の地獄の始まりだった。家には、恋人の香織が待っている。彼女の前で「完璧に優しく、健康で、無害な男」を演じ続けなければならない。そして、深夜の暗闇の中で、誰にも見られずにガスの元栓を数時間確認し、スマホの検索窓に血を吐くような思いで病名を打ち込み続ける、あの泥沼の時間が待っている。
エレベーターが、チン、と低い音を立てて到着した。
吸い込まれるように箱の中へと入っていく絢斗の耳の奥で、朝の通勤電車からずっと鳴り響いている「エラーシグナル」が、さらに音量を増してワンワンと鳴り響いていた。
脳のバグは、もう、自力では修復不可能なレベルにまで達している。
世界はノイズに満ちており、自分の心はとうの昔に麻痺して動かない。
成瀬絢斗という人間の崩壊へのカウントダウンは、この梅雨の静かな夜の裏側で、確実にその速度を上げていた。
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