不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>(確認しなければ、終わらない)</p><p>カチ、カチ、カチと点滅し続けるハザードランプの無機質な音が、絢斗の背中を冷酷に押し出す。</p><p>彼は震える指先でシートベルトのバックルを外した。カチャリという小さな金属音が、まるでこれから始まる裁判の開廷を告げるマレットの音のように聞こえた。</p>
本文
(確認しなければ、終わらない)
カチ、カチ、カチと点滅し続けるハザードランプの無機質な音が、絢斗の背中を冷酷に押し出す。
彼は震える指先でシートベルトのバックルを外した。カチャリという小さな金属音が、まるでこれから始まる裁判の開廷を告げるマレットの音のように聞こえた。
右手をドアノブにかける。引き金を引くような緊張感。ドアをわずかに開けた瞬間、外の激しい雨音が濁流のように車内へと流れ込んできた。絢斗は息を詰め、大雨が降りしきるアスファルトの上へと足を一歩踏み出した。
「冷たっ……」
一瞬にして、仕立ての良いビジネスシューズが水を吸って重くなり、スラックスの裾がふくらはぎにべったりと張り付いた。ビニール傘を開く余裕などなかった。絢斗はスマートフォンのライトを起動し、その細い光の束だけを頼りに、闇に包まれた住宅街の路上に身を投げ出した。
激しい雨は容赦なく彼の髪を濡らし、額を伝って目に入り、視界を激しく遮る。絢斗はワイシャツが肌に張り付くのも構わず、まずは車体の左前方に回り込んだ。
心臓が、耳の奥で太鼓のようにドクドクと暴れている。
(もし、バンパーに血がついていたら? へこみがあったら? 人間の髪の毛や、衣服の繊維が挟まっていたら?)
スマートフォンのライトを、フロントバンパーの左側に近づける。白いLEDの光が、濡れて光る黒い塗装を不気味に照らし出した。
水滴が這うように流れていく。絢斗は顔を限界まで近づけ、目を皿のようにして見つめた。
傷はない。へこみもない。血のような赤い液体も付着していない。ただ、激しい雨水がすべてを洗い流しているだけのように見えた。
「――ない。何もない」
喉の奥から、絞り出すような安堵の吐息が漏れた。
しかし、その安堵は一秒と持たなかった。
(いや、待て。これだけ激しい雨だ。衝突した瞬間に血が飛び散ったとしても、この雨量なら数十秒で完全に洗い流されてしまう。傷がつかない程度の、柔らかい肉体――例えば、小さな子どもの体や、厚着をした老人だったとしたら、バンパーに痕跡が残らない可能性は十分に高い。むしろ、痕跡がないことこそが、雨による『隠蔽』を証明しているんじゃないか?)
脳内の怪物が、再びロジックを180度反転させて絢斗をいたぶる。
絢斗は絶望に顔を歪めながら、今度は路面に視線を落とした。スマートフォンを低く構え、自分が通過してきた数メートル後ろのアスファルトを照らす。
そこにあるのは、激しい雨によってできた大きな水たまりと、古くなったアスファルトのひび割れだけだった。人間の身体らしき影は、どこにも見当たらない。
「ほら、誰もいない。水たまりの段差だったんだ。僕は誰も轢いていない」
自分を納得させるために、心の中で何度も叫ぶ。しかし、彼の足は車に戻ることができなかった。
(もし、撥ね飛ばされた人間が、衝撃で道路の脇の『側溝』に落ちていたら?)
(あるいは、近くの民家の敷地内や、生垣の奥まで吹き飛ばされていたら? だとしたら、道路だけを見て『誰もいない』と判断するのは、あまりにも致命的な見落としだ。救える命を見殺しにして逃げる、最悪の『ひき逃げ犯』になる)
暗暗の中で、周囲の生垣や電柱の影が、すべて苦しみに身をよじる人間の死体に見えてくる。絢斗は雨に打たれながら、道路に膝をつくようにして、側溝の暗い隙間にスマートフォンのライトを向けた。
流れる濁水。ゴミ。落ち葉。人間の姿はない。
さらに、数メートル後ろまで歩き、電柱の陰、民家のガレージの隅までライトを振る。
誰もいない。誰も、いない。
「大丈夫だ。誰もいない。帰ろう。香織のところへ帰ろう」
全身が芯まで冷え切り、歯の根がガチガチと鳴り始めていた。絢斗は命からがら運転席へと戻り、濡れたドアを閉めた。再び静寂が戻る。エアコンの温風が吹き出してきたが、濡れ鼠になった身体の震えは止まらない。
シフトレバーをDに入れる。車がゆっくりと前進を始める。自宅マンションまでは、あと残りわずか数百メートルだ。
だが、交差点を一つ曲がったところで、バックミラーに映る「自分が先ほどまで停車していた暗闇」が、絢斗の網膜に焼き付いて離れなくなった。
(本当に、側溝の奥まで見たか?)
(スマートフォンのライトの光量が足りず、生垣の影に倒れていた人の黒い服を見落としたのではないか?)
(もし、僕が立ち去ったあとに、あの人が息絶えたら? 今ならまだ、心臓マッサージをすれば助かるかもしれないのに、僕がこうして車を走らせている一秒一秒のせいで、その人の生存確率がゼロに向かってカウントダウンされているとしたら?)
「あああ、クソッ……!」
絢斗はステアリングを叩いた。
脳内から湧き上がる「見落としの恐怖」に、これ以上耐えることができなかった。確認をせずに家へ帰っても、今夜は一秒も眠れない。明日、警察が自宅のチャイムを鳴らす恐怖におびえ続けることになる。それなら、もう一度見て、完璧な安心を得る方がマシだ。
絢斗は狭い路地で何度も切り返しを行い、車をUターンさせた。
ヘッドライトが、再び先ほどの「現場」を照らし出す。彼は二度目の、そしてこれから何度も繰り返されることになる、絶望的な往復の地獄へと足を踏み入れていった。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。