不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>二度目に戻った現場には、やはり誰もいなかった。</p><p>三度目に戻ったときも、アスファルトの上を流れる濁水がヘッドライトの光を虚しく撥ね返しているだけだった。</p><p>しかし、確認の回数を重ねるごとに、絢斗の脳が捏造する「惨劇のディテール」は、より精緻に、より悪質に膨れ上がっていった。</p>
本文
二度目に戻った現場には、やはり誰もいなかった。
三度目に戻ったときも、アスファルトの上を流れる濁水がヘッドライトの光を虚しく撥ね返しているだけだった。
しかし、確認の回数を重ねるごとに、絢斗の脳が捏造する「惨劇のディテール」は、より精緻に、より悪質に膨れ上がっていった。
(待てよ。一回目に車を降りて周囲を捜索したとき、僕は車をバックさせた。もし、一回目の衝撃の時点で、その人はまだ生きていて道路に倒れていたとしたら? パニックになった僕が確認のために車を後退させたせいで、その人の身体をもう一度、今度は右側のタイヤで完全に踏み潰してしまったんじゃないか? 僕が、トドメを刺したんだ。最初の衝撃だけなら軽傷で済んだかもしれないのに、僕のこの狂った確認行動のせいで、人を確実に殺してしまったんだ――)
「違う、誰もいない。誰もいないじゃないか!」
絢斗はステアリングを握る両手に血がのぼるほど力を込め、ダッシュボードに向かって叫んだ。
だが、どれほど大声を張り上げても、脳内の怪物は「お前が見落としているだけだ」と冷酷に囁き続ける。強迫観念という名の病は、客観的な現実をすべて「都合の良い幻覚」として処理し、主観的な恐怖だけを唯一の「真実」として絢斗に突きつけてくるのだ。
四度目。車を近くのコンビニの駐車場に一度止め、徒歩で現場まで引き返した。
もう、ビニール傘を差すことすら忘れていた。ずぶ濡れになった髪が額に張り付き、冷たい雨水が絶え間なく目に入って視界を白く濁らせる。スラックスは跳ね上がった泥で黒く汚れ、高級なビジネスシューズは完全に浸水して、一歩歩くたびにグポ、グポと不快な音が足元から響いた。
スマートフォンのライトで、再び側溝の闇を照らす。
(いない。誰もいない。よし、大丈夫だ)
そう思った瞬間、民家の生垣の根元に、白いプラスチックのゴミ袋が捨てられているのが目に留まった。
(――あ。あれは、本当にゴミ袋か? 雨でふやけた、人間の手のひらなんじゃないか?)
そう一度でも疑ってしまえば、もう確かめずにはいられない。絢斗は泥水に膝をつき、ずぶ濡れの手を生垣の奥へと突っ込んだ。トゲのある枝が手の甲を引っ掻き、鋭い痛みが走る。それでも構わず、その「白い物体」に触れた。カサリ、と無機質なプラスチックの音が響く。ただのコンビニのレジ袋だった。
「ただの、ゴミだ。人じゃない」
胸をなでおろすが、立ち上がった瞬間に、今度は別の恐怖が彼を襲う。
(今、僕がこうして雨の中で泥だらけになって生垣を漁っている姿を、近くの民家の住人に見られていたら? 『あの車、さっきから何度も往復して、不審な動きをしている。ひき逃げの証拠隠滅でもしているんじゃないか』と怪しまれて、警察に通報されたら? 近所の防犯カメラや、通り過ぎた車のドライブレコーダーには、僕の車のナンバーが確実に記録されているはずだ)
周囲の民家の窓を見る。カーテンの隙間から、誰かが自分を冷たい目で見下ろしているような錯覚に囚われる。世界中のすべてが、自分を「いつ罪を犯すか分からない潜在的な犯罪者」として監視しているように思えてくる。
ポケットの中で、スマートフォンが短い振動を繰り返していた。
香織からのラインの通知だ。あるいは着信かもしれない。画面を見る心の余裕など、一ミリもなかった。「人を轢いたかもしれない」という狂気の中にいる人間が、どうして「今から帰るよ」などという日常の言葉を紡ぐことができるだろう。香織の優しさに触れること自体が、今の絢斗にとっては恐怖だった。自分のような汚れたモンスターが、彼女の待つ綺麗な部屋に帰っていいはずがないという自己嫌悪が、さらに彼を追い詰める。
時計の針は、すでに午後十時を回ろうとしていた。
あの「ドン」という衝撃から、二時間が経過している。本来なら、とっくに帰宅して香織の手料理を食べ、風呂に入って寛いでいるはずの時間だった。その二時間を、自分はただ、雨の住宅街の僅か数十メートルの区間を往復するためだけに費やしてしまったのだ。
時間の喪失感が、絢斗の心に決定的な絶望を植え付ける。
(僕は、狂っている。何もない空間を、何時間も、何時間も確認し続けている。でも、やめられないんだ。もし、もし万が一、本当に僕が人を見落としていたら、僕の人生は終わるから。香織を不幸にするから。だから、確認しなきゃいけないんだ……)
肉体の限界は、とうに超えていた。体温が急激に奪われ、全身がガタガタと激しく痙攣を始めている。歯の根が合わず、カチカチと音が鳴る。喉の奥の詰まりはさらにひどくなり、まるで冷たいセメントを流し込まれたかのように呼吸が苦しい。
(これ以上ここにいたら、僕が本当に不審者として現行犯逮捕される。あるいは、過呼吸で僕自身が死ぬ)
五度目の確認を終え、誰もいないアスファルトに深々と一礼するような奇妙な姿勢のまま、絢斗はどうにか車へと這い戻った。
運転席に座り、ドアを閉める。エアコンからは相変わらず温風が出ていたが、凍りついた肉体には冷風にしか感じられなかった。
「帰ろう。もう、帰らなきゃダメだ」
絢斗は血の気の引いた唇でそう呟き、今度こそ自宅マンションへと車を走らせた。現場からマンションまでの僅かな距離の間も、バックミラーを何度も確認し、後方からパトカーのサイレンが聞こえてこないか、耳を限界まで澄ませていた。
マンションの地下駐車場に車を滑り込ませ、エンジンを切った。
一瞬にして、ワイパーの音もエンジンの振動も消え、コンクリートに囲まれた密室に、完全な静寂が訪れる。
絢斗はステアリングに額を押し当てたまま、荒い息を吐き続けた。
まだ、終わっていない。明日、警察が来るかもしれない。ネットのニュースに『世田谷区でひき逃げ事件』と掲載されるかもしれない。その恐怖の種火を胸の奥にくすぶらせたまま、彼は車外へと出た。
これから、エレベーターに乗って、香織のいる部屋へ行かなければならない。
絢斗は両手で自分の両頬を強く叩いた。冷え切った皮膚に、わずかに赤みが差す。そして、鏡のようなエレベーターの金属壁に向かって、口角を左右対称に引き上げた。
誰も傷つけない、誰の脅威にもならない、あの完璧な「無害な聖人の笑顔」を、再びその顔に貼り付けるために。
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