不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>鍵を鍵穴に差し込み、静かに回す。カチャリという小さな音が、静まり返ったマンションの廊下に響いた。</p><p>成瀬絢斗は一度、深く息を吸い込んだ。肺の奥に溜まった冷たい夜の空気をすべて吐き出し、代わりにエレベーターの前で作った「完璧な笑顔」を顔の筋肉にしっかりと定着させる。準備は整った。彼はドアを引いた。</p><p>「ただいま、香織。遅くなってごめんね」</p>
本文
鍵を鍵穴に差し込み、静かに回す。カチャリという小さな音が、静まり返ったマンションの廊下に響いた。
成瀬絢斗は一度、深く息を吸い込んだ。肺の奥に溜まった冷たい夜の空気をすべて吐き出し、代わりにエレベーターの前で作った「完璧な笑顔」を顔の筋肉にしっかりと定着させる。準備は整った。彼はドアを引いた。
「ただいま、香織。遅くなってごめんね」
玄関に一歩足を踏み入れた瞬間、内廊下の柔らかい暖色の照明が絢斗の目を射た。それと同時に、出汁の効いた優しい和食の匂いが、ふわりと鼻腔をくすぐる。
それは本来なら、一日の激務を終えた男が最も安らぎを覚えるべき「温かい家庭の匂い」だった。しかし、二時間以上にわたって雨の闇のなかで「人を殺したかもしれない」という狂気に囚われていた絢斗にとって、その温もりはあまりにも眩しく、まるで自分の全身の汚れを容赦なく暴き立てる紫外線のように感じられた。
「あ、絢斗! お帰りなさい、すごく心配したんだよ――って、えっ、どうしたのその格好!?」
廊下の奥からパタパタとスリッパの音を立てて駆け寄ってきた香織が、玄関口に佇む絢斗の姿を見た瞬間、その大きな目をさらに見開いて硬直した。
無理もなかった。絢斗の仕立ての良いネイビーのスーツは、容赦ない雨を吸ってど黒く変色し、水滴が床のフローリングにポタポタと小さな水たまりを作っている。スラックスの裾やビジネスシューズの側面には、生垣を這い回った際についた泥と濡れた落ち葉がべっとりと張り付いており、右手の手の甲からは、トゲで引っ掻いた細い傷から滲んだ血が、雨水と混ざり合って薄ピンク色の雫となって滴り落ちていた。
香織は顔を青くさせ、絢斗の濡れた肩に手を伸ばそうとした。
「ちょっと、ずぶ濡れじゃない……! 傘は? 車で通勤したんじゃなかったの? その手の血、どうしたの!?」
「あはは、大丈夫だよ。心配させてごめんね」
香織の指先が自分の衣服に触れる直前、絢斗は滑らかな動作で半歩後ろに身を引いた。
彼女の手を拒絶したのではない。自分のスーツに付着しているかもしれない「目に見えない劇症型のウイルス」や「道路の泥に混ざった被害者の痕跡」を、香織の綺麗な手に絶対に触れさせてはならないという、強迫的な防衛本能が肉体を動かしたのだ。
絢斗は、顔の皮膚が引きつるのを自覚しながらも、どこまでも穏やかで優しい笑みを香織に向け続けた。
「仕事の帰りにさ、ちょっと社外のシステムトラブルがあってね。急いで近くの現場に駆けつけたんだけど、車の中に傘を置き忘れて歩いちゃったんだ。手の傷は、その時に暗い資材置き場の柵に少し擦っちゃっただけ。大したことないよ」
言葉の選択、トーン、視線の合わせ方。すべてが完璧な「優しい恋人」の演技だった。
絢斗の脳内では、今もなお『明日、警察が来る』『あの生垣の奥に本当に誰もいなかったか?』というエラーシグナルが、耳を聾するほどの音量で鳴り響いている。しかし、彼の表面にある「仮面」は、その狂気を一滴たりとも外に漏らさなかった。
香織は、差し出した手を空中で止めたまま、怪訝そうな、そして酷く胸を痛めたような表情で絢斗を見つめた。
「本当に……? トラブルって、そんな泥だらけになるような仕事なの? 連絡も全然つかないから、私、途中で事故にでも遭ったんじゃないかって、生きた心地がしなかったんだよ……」
香織の瞳に涙が潤むのを見て、絢斗の胸にズキリと鋭い痛みが走った。
(ほら見ろ。まただ。僕のせいで、香織を泣かせそうになっている。僕のこの異常な病気のせいで、彼女の平穏な日常を脅かし、精神的な『加害』を加えてしまっているんだ)
罪悪感が、さらに絢斗の笑顔の壁を強固にさせる。本当のことを言ってはならない。自分が「雨の住宅街で人を轢いたかもしれないという妄想に取り憑かれ、二時間も泥水を漁っていた狂人」であると告白すれば、香織は恐怖し、絶望し、そして自分から去っていくだろう。彼女を傷つけないためには、この本音を世界の誰にも見せないまま、自分一人の胸の底に埋め殺さなければならない。
「本当に何でもないよ、香織。ただの不注意さ。スマートフォンのバッテリーが切れちゃって、連絡できなくて本当に悪かった。これからはちゃんと気をつけるからね」
絢斗は一歩踏み込み、香織に心配をさせないための「完璧な恋人の顔」で、彼女の頭を優しく撫でようとした。しかし、自分の手が泥と血で汚れていることに気づき、その手を不自然に途中で引っ込めて、ズボンのポケットに隠した。
「……とにかく、早くお風呂に入って。服、着替えて。ご飯温め直すから」
香織はそれ以上、絢斗の笑顔の壁を突き破ることができなかった。彼の優しさはあまりにも完璧で、一切の反論や追及を許さない「鉄格子」のように機能していることを、彼女は本能的に察していた。香織は寂しそうに背を向け、キッチンのほうへと歩いていった。
浴室に入り、泥だらけの衣服を脱ぎ捨てる。
シャワーから溢れ出る熱い湯を頭から浴びながら、絢斗は壁に両手を突き、激しく喘いだ。仮面を脱いだ瞬間、抑え込まれていたパニックが津波のように押し寄せてくる。
(本当に、誰も死んでいないか? 明日の朝、ニュースにならなければ、僕は本当に安全だと言えるのか? 東条先生のところへ行けば、この脳のバグは消えるのか――?)
熱い湯が手の甲の傷に染みて痛んだが、その痛みが、自分がまだギリギリ「現実の世界」に繋ぎ止められている唯一の証明だった。
その夜、絢斗は香織が作った肉じゃがの味を、ほとんど感じることができなかった。マシーンのように咀嚼し、マシーンのように微笑み、マシーンのように「美味しいよ」と言葉を返した。
深夜、香織が隣で静かな寝息を立て始めたのを確認すると、絢斗は音を立てずにベッドを抜け出した。
リビングの暗闇の中、彼はスマートフォンのバックライトの青白い光に顔を照らされながら、再び検索窓に指を走らせ始めた。
『世田谷区 ひき逃げ』『雨の夜 視界 幻覚』『加害恐怖 治し方』――。
明日、幼馴染の律に連れられて、東条という男のクリニックに行くことになっている。
そこに行けば、この地獄から出られるのだろうか。それとも、あの冷徹と噂される医師に、自分の中に潜む「モンスター」の正体を見破られ、人間失格の烙印を押されるのだろうか。
窓の外では、夜明け前の雨が、まだ激しく世界を叩き続けていた。
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