不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>前夜の激しい豪雨が嘘のように、翌日の空はどんよりとした灰色の雲に覆われ、街全体がぬるい湿気に包まれていた。</p><p>渋谷区の閑静な住宅街のベゼルに位置する、意匠を凝らしたコンクリート打ち放しのビル。その三階に「東条メンタルクリニック」はあった。大通りに面した派手な看板はなく、エレベーターの横に真鍮製の小さなプレートが掲げられているだけ。隠れ家というよりは、世俗から意図的に隔離された実験室のような、無機質な静謐さが漂う場所だった。</p><p>自動ドアをくぐると、外界の不快な湿気は、完璧に管理された冷房の乾いた空気によって一瞬で叩き落とされた。</p>
本文
前夜の激しい豪雨が嘘のように、翌日の空はどんよりとした灰色の雲に覆われ、街全体がぬるい湿気に包まれていた。
渋谷区の閑静な住宅街のベゼルに位置する、意匠を凝らしたコンクリート打ち放しのビル。その三階に「東条メンタルクリニック」はあった。大通りに面した派手な看板はなく、エレベーターの横に真鍮製の小さなプレートが掲げられているだけ。隠れ家というよりは、世俗から意図的に隔離された実験室のような、無機質な静謐さが漂う場所だった。
自動ドアをくぐると、外界の不快な湿気は、完璧に管理された冷房の乾いた空気によって一瞬で叩き落とされた。
受付の奥からは、微かに空気清浄機が稼働する低いハミングだけが聞こえる。BGMの類いは一切ない。白とグレーで統一された待合室のソファには、数人の先客がいたが、誰もが互いの存在を消し去るかのようにうつむき、スマートフォンを見つめるか、虚空を睨みつけていた。
「おい、絢斗。座れよ。顔色が死人のそれだぞ」
背後から、低く、しかしよく通る声で促され、成瀬絢斗はビクリと肩を揺らした。
振り返ると、そこには幼馴染の桐生律が、眉間に深い皺を寄せたまま立っていた。学生時代から変わらない、少し癖のある短髪に、がっしりとした体躯。カジュアルなジャケットを羽織った律の佇まいは、この静まり返ったクリニックの空気の中で、唯一の「生々しい現実」として機能していた。
「あはは、ごめんごめん。ちょっと、ここの空気の綺麗さに圧倒されちゃってさ」
絢斗は即座に、いつもの100パーセント完璧に調律された笑顔を律に向けた。
しかし、その笑顔の裏側にある絢斗の肉体は、すでに限界をとうに迎えていた。前夜、雨の住宅街での「ひき逃げ(妄想)」の恐怖から、一秒たりとも眠ることができなかったのだ。ベッドの中で香織の寝息を聞きながら、スマートフォンの画面が放つ青白い光を浴び続け、世田谷区の事故情報を検索し続けた夜。朝、家を出る前にも、自車のバンパーを指が擦り切れるほど確認し、民家の防犯カメラの位置を脳内でマッピングしていた。
寝不足による強烈な偏頭痛が、こめかみの奥でドクドクと拍動している。目の下にはコンシーラーでは隠しきれないほど黒い隈が沈み、ポケットの中に入れた両手は、緊張のあまり今も小さく震え続けていた。
「お前な、その『大丈夫です』みたいな顔、俺には通用しねえっての。小学校からの付き合いだぞ」
律はため息をつきながら、絢斗の隣のソファにドカリと腰を下ろした。「今朝、お前が会社に『体調不良で遅刻する』って連絡を入れた時、声が完全に裏返ってたんだよ。おまけに、迎えに行ったらその手の傷だろ? 何が資材置き場で擦っただ。お前がそんな不注意なケガするわけがない」
律の視線が、絢斗の右手の甲へと注がれる。昨夜、生垣の奥のプラスチック袋を確認するために突っ込み、トゲのある枝で引っ掻いた数条の傷跡。それは赤黒く腫れ、絢斗の「嘘」を冷酷に証明していた。
「本当に、ちょっとドジを踏んじゃっただけだよ。律は心配性だなあ。わざわざ会社を半休してまで、こんなところについてきてくれなくても良かったのに」
「うるせえ。お前をこのまま放っておいたら、マジで線路に飛び込むか、壊れて二度と元に戻らなくなる気がしたんだよ。香織ちゃんもお前の様子がおかしいって、泣きそうな声で俺に電話してきたんだぞ」
香織の名前を出され、絢斗は言葉を詰まらせた。
(香織に、そこまで心配させていたのか。いや、僕が彼女に『心配という名の精神的加害』を与えてしまっていたんだ)
胸をえぐるような自責の念。絢斗はそれ以上の反論を諦め、ただ膝の上で手を組み直した。
律がここまで強引に動き、このクリニックを予約してくれたのは、幼馴染としての確かな直感があったからだ。
絢斗は昔から、誰に対しても「良い子」だった。親の言うことを聞き、教師に褒められ、友達の無理難題な頼みも笑顔で引き受ける。だが、律だけは知っていた。絢斗が時折、誰も見ていない場所で、自分の手を血が滲むほど執拗に洗っていたこと。テストの解答欄に間違いがないか、チャイムが鳴る直前まで狂ったように鉛筆の先で確認し続けていたこと。
「成瀬絢斗は、完璧なんかじゃない。自分を完璧という名の檻に閉じ込めて、内側から血を流しているだけだ」
それが、律が二十年以上の付き合いの中で導き出した、絢斗という人間の本質だった。そしてここ数ヶ月、絢斗のその「檻」は、完全に彼の精神を押しつぶし、生活を破綻させ始めていた。エンジニアとしての致命的な作業遅延、極度の不眠、そして今回の謎の怪我。律が見かねて、精神医療の世界で「冷徹だが、腕は確かだ」と噂される東条の元へ連れてきたのは、必然の選択だった。
「成瀬絢斗さん。一番診察室へどうぞ」
受付の女性スタッフが、感情を抑えた静かな声で絢斗の名前を呼んだ。
待合室の静寂が、一瞬だけ裂ける。
絢斗の心臓が、ドキンと大きく跳ね上がった。喉の奥に、あの不快な「ざらついたプラスチックの味」がブワリと広がっていく。過呼吸の予兆だ。
「……よし。じゃあ、行ってくるよ、律」
絢斗はソファから立ち上がり、スーツの皺を丁寧に伸ばした。そして、親友を安心させるための、最も無害で爽やかな笑顔を作り上げた。
「おう。しっかり診てもらえ。脳みそのバグ、全部吐き出してこい」
律はぶっきらぼうに言いながらも、その瞳には痛いほどの心配の色が浮かんでいた。
絢斗は律に小さく手を振ると、診察室へと続く重い防音ドアへと歩を進めた。ドアノブに手をかける。金属の冷たさが、手のひらの汗を吸ってぬるりと滑った。
この扉の向こうに、自分の脳を蝕む「怪物」を、カルテという名の解剖台に乗せて切り刻む男が待っている。
絢斗は覚悟を決め、ドアを静かに押し開けた。
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