不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>診察室の中に一歩足を踏み入れた瞬間、絢斗はまるで巨大な保冷庫の中に閉じ込められたかのような、肌を刺す静寂に包まれた。</p><p>部屋の広さは十畳ほど。中央には無機質なスチール製のデスクが置かれ、その上には高解像度のモニターが二枚、冷たい光を放っている。壁側には全面に本棚が設置され、精神医学や行動療法に関する分厚い専門書が、背表紙の色彩を揃えて整然と並べられていた。観葉植物のような情緒的なものは一切なく、窓のブラインドは完全に閉じられている。外の世界の光も音も、ここでは完全に遮断されていた。</p><p>デスクの奥に、その男は座っていた。</p>
本文
診察室の中に一歩足を踏み入れた瞬間、絢斗はまるで巨大な保冷庫の中に閉じ込められたかのような、肌を刺す静寂に包まれた。
部屋の広さは十畳ほど。中央には無機質なスチール製のデスクが置かれ、その上には高解像度のモニターが二枚、冷たい光を放っている。壁側には全面に本棚が設置され、精神医学や行動療法に関する分厚い専門書が、背表紙の色彩を揃えて整然と並べられていた。観葉植物のような情緒的なものは一切なく、窓のブラインドは完全に閉じられている。外の世界の光も音も、ここでは完全に遮断されていた。
デスクの奥に、その男は座っていた。
東条 clinicの院長、東条。年齢は五十代後半といったところだろう。仕立ての良いチャコールグレーの三つ揃えのスーツを着こなし、医師にありがちな白衣は身にまとっていない。細身で端正な体躯、短く刈り込まれた髪には綺麗な銀灰色の白髪が混じり、細いフレームの眼鏡の奥にある瞳は、完全に感情の起伏を排したガラス玉のように冷徹だった。彼は、入室してきた絢斗の頭の先から、泥に汚れた靴の先に至るまでを、一瞬のスキャンで観察し尽くすかのような鋭い視線を向けた。
「成瀬絢斗さんですね。どうぞ、そちらの椅子へ」
低く、硬質で、一切の含みを持たない声だった。
絢斗は緊張で強張る喉をどうにか動かし、「失礼します」と答えてデスクの前の丸椅子に腰掛けた。背筋をぴっと伸ばし、100パーセント完璧に調律された「無害で誠実な青年の笑顔」を東条に向ける。
「初めまして、東条先生。成瀬です。本日はお忙しい中、時間を割いていただきありがとうございます」
いつもの、社会生活を円滑にするための定型句。しかし、東条はその挨拶に対して微笑み返すことも、頷くことすらしなかった。ただ、モニターに表示された律からの紹介状と思われるテキストに目を落とし、冷淡に言った。
「社交辞令は不要です。ここにはあなたの『病理』を扱いに来ているのであって、あなたの好感度を測定しに来ているわけではない。成瀬さん、その笑顔を維持するのに、どれほどのエネルギーを消費していますか」
痛烈な先制パンチだった。絢斗の笑顔が、一瞬だけピキリと凍りつく。
東条は視線をモニターから絢斗の顔へと戻し、淡々と続けた。
「目の下の重度の隈、浅い呼吸、そして右手の甲にある擦過傷。あなたが今、極限のパニック状態にあることは明白です。私の前で『問題のない人間』を演じる必要はありません。主訴をどうぞ。あなたは何に困ってここへ来たのですか」
東条の瞳には、同情や憐れみといった「温もり」が微塵も存在しなかった。それは、患者を慰める救世主の目ではなく、不具合を起こした機械を冷酷に観察するエンジニアの目だった。しかし、その絶対的な冷徹さが、かえって絢斗の胸の奥にある「何か」を震わせた。この人なら、僕のこの異常な状態を、感情論ではなくシステムとして理解してくれるかもしれない。
絢斗はポケットの中で固く拳を握りしめ、貼り付いた笑顔のまま、縋るような声を絞り出した。
「先生……僕の、脳のバグを治してほしいんです」
「バグ、ですか」
「はい。僕の脳のプログラムには、致命的なエラーが発生しています」
絢斗は堰を切ったように話し始めた。昨夜、雨の帰り道で車を運転していたときに感じた、あの「ドン」という小さな衝撃。そこから始まった、人を轢き殺してしまったのではないかという猛烈な恐怖。現場と自宅を五回も往復し、雨の中で泥だらけになって側溝や生垣を漁り続けた狂気の二時間。そして、今もなお『明日、警察が来るのではないか』という不確実な疑念に脳内がジャックされ、一秒も眠れずにいること。
「確認をすれば安心できると思って、何度も何度も戻るんです。でも、確認すればするほど、新しい恐怖のシナリオが頭の中に湧いてきて、時間がどんどん溶けていく。仕事も、生活も、恋人との関係も、もう限界です。僕の脳の仕様がおかしいんです。どうか、このエラーを取り除くための『修正パッチ』をください。僕を、普通の、無害な人間に戻してください」
絢斗は必死だった。呼吸はいつの間にか速くなり、ワイシャツの胸元が激しく上下している。
東条は絢斗のその悲痛な訴えを、表情一つ変えずに聞いていた。やがて、彼は絢斗の言葉が途切れたのを見計らうと、デスクの上に置かれていた一本の重厚な万年筆に手を伸ばした。電子カルテの横にあるメモ用紙に、何かを書き留めようとしたのだろう。
東条が、無造作に、自身の右手を顔の高さまで上げた。
――その瞬間だった。
絢斗の脳内で、言葉にできない強烈な「警報」が炸裂した。
彼の顔には、まだ香織や律に向けていたあの「完璧な笑顔」が貼り付いたままだった。しかし、その笑顔の下にある肉体だけが、絢斗の意志とは全く無関係に、完全に凍りついた。
肩が極限まで跳ね上がり、首が亀のようにすくむ。両肘が肋骨をガードするように内側に巻き込まれ、全身の筋肉が一瞬にして鋼鉄のように硬直した。それは、上空から急降下してきた猛禽類を察知した小動物のような、あるいは、激しい身体的暴力を何度も叩き込まれた人間だけが持つ、条件反射としての「防御姿勢」だった。
東条の万年筆を持つ手が、空中でピタリと止まった。
診察室の空気が、完全に氷結する。
絢斗は、自分がどのような姿勢をとっているかに遅れて気づき、慌てて肩の力を抜いた。額からドッと冷や汗が噴き出す。心臓の音が、ドクドクと不快に耳元で鳴り響いた。
「あ、す、すみません……。ちょっと、急に大きな動きが見えたので、びっくりしてしまって」
絢斗は取り繕うように笑った。笑いながら、必死に脳内のトラウマの記憶――幼い頃、笑顔のままで自分を見下ろし、容赦なくその大きな手を振り下ろしてきた「親」の影を、意識の暗い底へと押し込めた。
東条は、眼鏡の奥の細い目をさらに細め、絢斗のその一連の身体反応を、恐ろしいほどの解像度で凝視していた。
彼は上げた手をゆっくりと下ろし、万年筆を指先で弄びながら、冷徹な声で言った。
「なるほど。あなたの『システム』の構造が、今の一瞬で大体把握できました」
その言葉は、絢斗の魂の最も深い部分までを見透かすような、冷たい響きを帯びていた。
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