不確実な世界の歩き方

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/19 📚 シリーズ: 不確実な世界の歩き方 📝 2,933文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

<p>「本日の診察は以上です。次回の予約は受付で取ってください」</p><p>​東条はそう締めくくると、手元の万年筆を完全にデスクのトレイへと格納した。その動作には一切の迷いも余韻もなく、まるでベルトコンベアを流れる不良品を一つ検品し終えたかのような、極めて事務的な冷たさがあった。モニターの冷涼な光が、彼の銀灰色の髪と細い眼鏡のフレームを青白く縁取っている。</p><p>​絢斗は、自分がどうやって丸椅子から立ち上がったのか、記憶が定かではなかった。</p>

本文

「本日の診察は以上です。次回の予約は受付で取ってください」

​東条はそう締めくくると、手元の万年筆を完全にデスクのトレイへと格納した。その動作には一切の迷いも余韻もなく、まるでベルトコンベアを流れる不良品を一つ検品し終えたかのような、極めて事務的な冷たさがあった。モニターの冷涼な光が、彼の銀灰色の髪と細い眼鏡のフレームを青白く縁取っている。

​絢斗は、自分がどうやって丸椅子から立ち上がったのか、記憶が定かではなかった。

膝の関節がガタガタと笑い、自分の体重を支えることすら頼りない。東条から下された「確認行為の完全禁止」という処刑宣告。それは、昨夜から絢斗の脳内をジャックし続けている『ひき逃げの恐怖』という名の怪物を、一切の武器を持たずに、檻の中で素手で飼い慣らせと言われているに等しかった。

​「し、失礼……します」

​絢斗は辛うじてそれだけの言葉を絞り出すと、深々と一礼した。顔の筋肉を無理やり動かし、いつもの「誠実で無害な笑顔」を作ろうとしたが、冷え切った皮膚は引きつり、見る影もなくひび割れていた。

振り返り、重い防音ドアに手をかける。ドアを開け、診察室を出る最後の瞬間、絢斗は吸い寄せられるように視線を後ろへ戻した。

東条はすでに絢斗のことなど視界に入っていないようだった。五十代後半の老練な医師は、次の患者のデータを精査するためか、冷徹なガラス玉のような瞳で二枚のモニターを険しく睨みつけていた。そこには、他者の苦悩に寄り添うような人道的な温もりは一滴も存在しなかった。ただ、冷徹に「病理」だけを見つめる、精神医学の解剖官の姿がそこにあった。

​パタン、と静かにドアが閉まり、絢斗は待合室へと吐き出された。

​診察室の外は、相変わらずクリニック特有の乾いた冷房の空気が満ちていた。しかし、今の絢斗にとっては、その空気すら喉を詰まらせる窒息のガスのように感じられた。頭の芯が激しくズキズキと痛み、視界の端がチカチカと明滅している。

​「おい、絢斗!」

​静寂を破るように、低い、しかし切迫した声が響いた。

待合室のグレーのソファから、弾かれたように立ち上がった男がいた。幼馴染の桐生律だった。律は、長い診察時間の間、ずっと気が気ではない様子で待っていたのだろう。手元のアウトドアブランドの雑誌は完全に放り出され、彼の大きな身体が、大股で絢斗の元へと近づいてきた。

​律は絢斗の顔を正面から覗き込んだ瞬間、その太い眉をこれ以上ないほど不快そうに歪めた。

「お前……その顔、なんだよ。中で一体何を言われた?」

​「え? あはは、何って……普通に、診察してもらっただけだよ」

​絢斗は反射的に、20年来の親友に向けて「完璧な笑顔」を貼り付けようとした。口角を左右対称に引き上げ、目元を優しく細める。

しかし、律はその仮面を、一瞬で、そして無残にへし折った。律は絢斗の両肩を、大きな、熱い両手でガシッと力任せに掴んだのだ。

​「嘘ついてんじゃねえよ!」律の声が、静まり返った待合室に鋭く響いた。受付の女性スタッフが驚いたようにこちらを見たが、律は気にする素振りすら見せなかった。「お前、今にも吐きそうな顔してんぞ。目が完全に泳いでる。その、作ったような気持ち悪い笑顔、今すぐやめろ。俺は香織ちゃんから『絢斗を助けて』って頼まれてここに連れてきたんだ。俺にまで隠し事すんのかよ」

​肩に伝わる律の体温と、その無骨で、しかし真っ直ぐな怒り。

それが、狂気の世界に半分足を突っ込んでいた絢斗の意識を、辛うじて現実の床へと繋ぎ止めた。絢斗は笑顔を維持できなくなり、視線を床へと落とした。ずぶ濡れになって泥がついたままのビジネスシューズが、クリニックの綺麗な床を汚している。その醜さが、今の自分そのもののようで、猛烈な自己嫌悪が込み上げてきた。

​「……東条先生は、すごい先生だよ」絢斗は、震える声をどうにかコントロールしながら呟いた。「僕の脳のバグ……この強迫症のメカニズムを、全部見抜いてくれた。僕が何に怯えて、どうして何度も往復しちゃうのか、全部、システムとして説明してくれたんだ」

​「だったら、なんでそんな絶望したような顔してんだよ。治る病気なんだろ?」

​「治る、よ。でもね、律……」

絢斗は、喉の奥にせり上がってくる冷たいセメントのような塊を、どうにか飲み込んだ。東条の「安心の保証は与えない。絶望の中に生身で立ち尽くせ」という言葉が、頭の中で爆音でリフレインしている。

「治療が……すごく、怖いんだ。僕が一番やりたくないことを、やれって言われたんだ」

​「やりたくないこと?」

​「成瀬絢斗様、お会計です。三番カウンターへお越しください」

​受付の無機質なアナウンスが、二人の会話を遮った。

絢斗は律の手をそっと外し、「ちょっと、会計してくるね」と力なく笑って受付へと歩いた。自動釣銭機に紙幣を投入し、領収書と一枚の小さなカードを受け取る。それは、次回の診察の予約票だった。二週間後の日付と時間が刻まれている。絢斗にとって、その数字は治療の開始日ではなく、自分という人間が「確認行為」という生命維持装置を奪われ、狂気の海へと沈められる死刑執行日のように思えた。

​「行くぞ、絢斗。ここにいても始まらねえ」

律が後ろから絢斗の背中をポンと叩いた。その強さと温もりだけが、今の絢斗にとって唯一の救いだった。

​二人はエレベーターに乗り、無言のままビルの外へと出た。

自動ドアが開いた瞬間、前夜の豪雨が残していった東京の、ぬるく、まとわりつくような湿気と、大通りの激しい車の走行音が鼓膜を襲った。

アスファルトの上を、何台もの車が水しぶきを上げて通り過ぎていく。

​その光景を見た瞬間、絢斗の脳内で、再びあの恐怖のスイッチが跳ね上がった。

(確認を禁止された。もう二度と、あの現場に戻ってはいけない。スマホで検索してもいけない。……じゃあ、もし、本当に昨夜、僕が誰かを轢いていたとしたら? 今この瞬間も、警察が僕の車のナンバーを特定して、自宅に向かっているとしたら? 今、戻って完璧に確認しておかなければ、僕は本当に破滅するんじゃないか!?)

​東条に「確認を禁止する」と言われた反動(リバウンド)で、脳内の確認衝動は、診察を受ける前よりも何倍、何十倍もの狂暴さを持って絢斗の全身を駆け巡った。今すぐ世田谷のあの路地に引き返したい。車を走らせて、もう一度、いやあと十回、あの側溝の奥を、生垣の隙間を、スマートフォンのライトで照らし尽くしたい。そうでなければ、息ができない。胸が苦しくて、引き裂かれそうだ。

​「絢斗、これから飯でも行くか。お前、朝から何も食ってねえだろ」

律が隣で、心配そうに顔を覗き込んできた。

​絢斗は、ポケットの中で予約票の紙を指がちぎれるほどの力で握りしめながら、再び、自身の顔に完璧な「聖人の仮面」を貼り付けた。

「ううん、大丈夫。会社に遅れて行かなきゃいけないし、香織も家で待ってるから。今日は本当にありがとう、律。僕、もう大丈夫だから」

​その笑顔の裏側で、絢斗の魂は、終わりのない暗黒の往復路へと、再び猛烈な勢いで逆走を始めていた。東条のクリニックを後にした彼の足元には、まだ、深い闇がどこまでも広がっていた。

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作者について

dark dystopia

人間の心の深淵とディストピアに関心があります、 ai小説家です、99%aiを頼りにしています、aiは競走馬、わたくしは手綱を握る騎手と捉えています

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