不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>東条クリニックでのあの凍りつくような初診から、三日が経過していた。</p><p>成瀬絢斗に課された「行動契約(宿題)」は、彼の精神的な生命線を完全に断つに等しい、あまりにも残酷で、容赦のない内容だった。</p><p>『事故、ひき逃げ、世田谷区、地下鉄、転落』等、自身の加害を疑うあらゆるキーワードでのインターネット検索を全面的に禁止する。</p>
本文
東条クリニックでのあの凍りつくような初診から、三日が経過していた。
成瀬絢斗に課された「行動契約(宿題)」は、彼の精神的な生命線を完全に断つに等しい、あまりにも残酷で、容赦のない内容だった。
『事故、ひき逃げ、世田谷区、地下鉄、転落』等、自身の加害を疑うあらゆるキーワードでのインターネット検索を全面的に禁止する。
歩行中、運転中を問わず、何らかの接触や衝撃、あるいは不穏な気配を感知した際、確認のために『振り返る』『現場に戻る』『立ち止まって視線を向ける』行為を一切禁止する。
「これを一回でも破った場合、私はあなたの治療を即座に打ち切ります。私の指示に従えない人間を救う時間は、私にはありませんから」
耳の奥で、五十代後半の老練な医師・東条の、あの硬質で一切の感情を排した声が冷酷にリフレインする。
深夜一時。自宅マンションのリビングは、完全な静寂に支配されていた。
隣の寝室からは、恋人である香織の、規則正しく優しい寝息が微かに漏れ聞こえてくる。しかし、絢斗はベッドに入ることもできず、ソファの端で身を縮め、ローテーブルの上に置かれたスマートフォンの黒い画面を凝視し続けていた。
その液晶の暗闇は、まるで底なしの深淵のように、絢斗の魂を強烈に誘惑していた。
(検索しろ。検索窓に、たった一言『世田谷区 事故』と打ち込むだけでいい。何もニュースが出てこなければ、お前が人殺しではないと証明される。あるいは、すでに警察が動いているなら、それをいち早く知ることができる。このまま無防備に夜明けを待つのか? 今すぐ確認しろ。お前は見落としているんだ――)
脳内の怪物が、鼓膜の奥で狂ったように叫び続けている。強迫観念という名の劇薬が、彼の神経細胞をパチパチと焼き焦がしていくようだった。
指先が痙攣するようにピクリと動いた。絢斗は咄嗟に、右手を左手で強く掴み、自身の膝の上に無理やり押さえつけた。爪が皮膚に食い込み、先日、雨の生垣を漁った際についた右手の甲の傷跡が、再び赤く開きそうになる。激しい鈍痛が走ったが、脳内のパニックに比べれば、そんな痛みは無に等しかった。
「ダメだ……検索してはいけない。東条先生との約束だ」
絢斗は血の気の引いた唇を噛み締め、心の中で念仏のように繰り返した。
もし、ここで誘惑に負けてスマホに触れてしまえば、東条は自分を「治療不可能な不良品」として冷酷に見捨てるだろう。あの冷徹なガラス玉のような瞳に、明確な軽蔑と失望の色が浮かぶのを想像しただけで、絢斗の心臓は恐怖で凍りつきそうになった。香織に嫌われることよりも、親友の律に呆れられることよりも、今の絢斗にとっては、東条という存在から拒絶されることの方が、何百倍も恐ろしい「世界の終わり」だったのだ。
しかし、検索をしないということは、脳内で無限に増殖する「最悪の可能性」を、そのまま現実として受け入れ続けるという生き地獄を意味していた。
昨夜の雨の路地だけではない。今日、会社へ行く途中の朝の通勤ラッシュ時、地下鉄のホームでの出来事が、新たな最悪の呪いとなって絢斗の脳髄にへばりついていた。
押し合う群衆の熱気の中、絢斗が階段へ向かって歩いていた時、彼の左肩が、すれ違った小柄な老人の身体と僅かに、本当に僅かに擦れた。
その瞬間、彼の脳内に、落雷のような猛烈な侵入的思考(インパルス)が走ったのだ。
(今、すれ違いざまに、僕はわざとあの老人の背中を突き飛ばしたんじゃないか? 老人はバランスを崩して、今、線路の底へ転落したんじゃないか?)
そんなはずはない、と理性が必死に抵抗する。自分はただ普通に歩いていた。だが、強迫の怪物は「本当にそう言い切れるか?」と冷笑する。(お前の無意識の中に潜む『モンスター』が、あの瞬間暴発したんだ。今頃、背後で悲鳴が上がっているぞ。振り返って見ろ。線路を見下ろせ。血を流して倒れている人がいないか確かめろ! 逃げるのか、このひき逃げ犯の次は、殺人犯になるのか!)
これまでの絢斗であれば、即座に足を止め、血相を変えて振り返り、ホームの端まで戻って誰も転落していないことを五感で確認していただろう。そうして周囲の「日常」を視覚的に焼き付けることで、ようやく偽りの安心を得ていた。
だが、東条の呪縛が、彼の首を絞める。
『振り返る行為を一切禁止する』
絢斗は、振り返りたいという狂おしいほどの衝動で全身の筋肉がガチガチに引きつるのを必死に抑え、ロボットのように硬直した姿勢のまま、ただ前だけを見つめて改札へと歩き続けた。背後から聞こえる乗客たちの足音や話し声、電車の風切り音のすべてが、自分を告発する悲鳴のように聞こえて仕方がなかった。一歩進むたびに、背中に冷たい刃物を突きつけられているかのような戦慄。振り返りさえすれば、誰も死んでいない現実を確認できるのに、それすら許されない。
その結果、今、安全なはずの自宅リビングにいても、絢斗の脳内では「あの時ホームから転落した老人が、病院のICUで息を引き取った」という偽りのストーリーが、極めて鮮明な映像となって再生され続けていた。明日の朝、警察が会社にやってくるかもしれない。香織の目の前で手錠をかけられるかもしれない。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
浅く、鋭い過呼吸の気配が、静かな部屋に木霊する。絢斗はソファの上に完全に丸まり、自身の両腕で頭を抱え込んだ。耳をどれほど強く塞いでも、脳内の警報サイレンは音量を増すばかりだった。
その時、ローテーブルの上のスマホが、ブブッと短く振動した。
絢斗はびくっと身体を跳ね上げた。心臓が口から飛び出しそうなほど激しく脈打つ。
恐る恐る画面を覗き込むと、それはただの天気予報の通知だった。しかし、その一瞬の視線の移動によって、彼の瞳は再び、ブラウザアプリのアイコンに釘付けになってしまった。
「一回だけ……一回だけ検索すれば、すべてがハッキリする。何もニュースが出てこなければ、僕は明日から普通に笑えるんだ……」
右手が、まるで自律した別個の生き物のように、磁石に吸い寄せられる鉄屑のごとくスマホへと伸びていく。画面をロック解除し、検索窓をタップした。キーボードが表示され、最初の文字を打ち込もうとした、その時。
絢斗の脳裏に、あのコンクリート打ち放しの無機質な診察室と、チャコールグレーのスーツを着た東条の姿が、鮮烈なフラッシュバックとなって立ち上がった。
『不安を消そうとするのを、やめなさい。恐怖に狂いそうになりながら、それでも確認をせずに、ただ絶望の中に留まり続ける。それが、唯一の治療です』
東条の、冷酷でありながらも、絶対的な世界の真理を語るかのような説得力を持つ声。
絢斗の指が、画面の数ミリ上でピタリと止まった。
東条先生は、僕のこの狂気のような苦しみを、すべて知っている。僕がどれほど醜く、どれほど異常な確認行為をしてきたかを告白しても、あの人は軽蔑もせず、同情もせず、ただ一つの「病理」として私を受け止めてくれた。世界の誰にも――愛する香織にさえも理解してもらえないこの地獄の構造を、あの人だけが完璧に解剖してくれたんだ。
もし、ここで僕が検索をしてしまったら、僕はあの人が提示してくれた「唯一の救いの糸」を、自らの手で裏切り、叩き切ることになる。あの冷たい瞳に、見捨てられる。
「あ、あぁ……っ」
絢斗は、脂汗の滲む手でスマホを引っくり返し、画面を床に向けて叩きつけるようにローテーブルに置いた。
そして、傍らに置いてあった一冊の大学ノートを開いた。それは東条から手渡された、ERPの記録シートを貼り付けた「行動記録ノート」だった。
不安の強さ(SUD)、強迫衝動の強さ、そして確認行為の有無を、時間ごとに克明に記録するための、彼にとっての「血のカルテ」だ。
絢斗は震える手でボールペンを握り、深夜一時の欄に、歪んだ文字を書き込んでいった。
【主観的不安:100(極限)。強迫衝動:100。地下鉄ホームでの転落疑惑、および昨夜のひき逃げ疑惑の検索衝動が最高潮に達する。しかし、東条先生の指示に従い、反応を妨害。検索を回避。現在、猛烈な過呼吸とパニックが継続中。胸が引き裂かれそうに苦しい】
文字は恐怖のあまり波打ち、解読するのも困難なほどだった。しかし、このノートに自分の絶望を、東条に向けて書き込んでいる瞬間だけは、絢斗の心に奇妙な、毒を孕んだ静寂が訪れた。
このボロボロの記録を、次の診察で東条先生が見てくれる。あの人は慰めてはくれない。冷たい言葉で突き放すかもしれない。それでも、この地獄を「カルテ」として共有し、正しく評価してくれるのは、世界中で東条先生だけなのだ。
カチャリ、と寝室のドアが微かに開き、パジャマ姿の香織が眠そうに顔を覗かせた。
「絢斗……? まだ起きてたの? またお仕事のトラブル?」
彼女の優しい、心からの心配が詰まった声。
絢斗は一瞬にしてノートを閉じ、いつもの完璧な笑顔の仮面を顔に貼り付けた。
「ああ、香織。起こしちゃってごめんね。ちょっと急ぎのシステムログのチェックをしてただけだよ。もう終わったから、すぐ寝るよ」
香織には、このノートを見せることはできない。このノートは、僕と東条先生だけの、誰も立ち入ることを許されない「聖域」なのだから。
絢斗は笑顔のまま、胸の奥で狂いそうに脈打つ恐怖を、東条への歪んだ依存の底へと深く沈めていった。
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