不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>「振り返るな。検索するな。確認するな」</p><p>その三つの絶対戒律に縛られた数日間は、絢斗にとって、五感をじわじわと酸で溶かされるような遅効性の拷問に等しかった。</p><p>朝、マンションを出てからオフィスに着くまでの僅か三十分の通勤路が、無数の地雷が埋め込まれた戦場へと変貌する。</p>
本文
「振り返るな。検索するな。確認するな」
その三つの絶対戒律に縛られた数日間は、絢斗にとって、五感をじわじわと酸で溶かされるような遅効性の拷問に等しかった。
朝、マンションを出てからオフィスに着くまでの僅か三十分の通勤路が、無数の地雷が埋め込まれた戦場へと変貌する。
駅への階段を下りているとき、背後で「あっ」という短い落胆の声が聞こえた。それだけで、絢斗の脊髄に冷たい電流が走る。
(僕のリュックの金具が、後ろを歩いていた人の目に当たって失明させたんじゃないか? 今すぐ振り返って、その人が目を押さえてうずくまっていないか確認しろ。もしそうなら、救急車を呼ばないと手遅れになるぞ)
横断歩道を渡っているとき、すぐ側を通り過ぎた自転車が、ガタリと小さくバランスを崩す音がした。
(お前がすれ違いざまに、あの自転車のハンドルをわざと掴んでひねったんだ。今、あの人は車道に投げ出されて、トラックに轢かれそうになっている。戻れ。振り返って、その人の無事を確認しろ!)
強迫の怪物は、日常のあらゆる些細な環境音や他人の挙動を、すべて絢斗の「凶行」へと翻訳して脳内に叩き込んでくる。
そのたびに、絢斗の肉体は硬直した。首の後ろの筋肉が、振り返りたいという猛烈な飢餓感でパキパキと音を立てるように引きつる。スマートフォンのブラウザを開き、地名の後に「事故」「救急」と打ち込みたいという衝動が、指先を激しく痙攣させる。
だが、その狂気的な衝動の防波堤となったのは、他ならぬ東条医師の存在だった。
(ここで振り返ったら、僕は東条先生の治療を受ける資格を失う。あの冷徹な診察室から、今度こそ完全に叩き出される。不良品として、二度と顧みられなくなる。それだけは、死んでも嫌だ)
絢斗は歯の根が合わなくなるほど顎を噛み締め、視線を真っ直ぐ前方の虚空に固定した。首を強引に前へと向けたまま、操り人形のような不自然な歩調で歩き続ける。背後から聞こえるすべての音が、自分を糾弾する叫びのように聞こえて胸が潰れそうだったが、それでも、彼は一歩も引き返さなかった。東条という「絶対的な規律」に従うことだけが、彼が自らの崩壊を食い止めるための、唯一の細い鎖だった。
その結果、絢斗の日常は凄まじいスピードで機能不全を起こしていった。
会社では、PCのモニターに向かいながらも、脳内で「さっきすれ違った同僚の足を引っ掛けたのではないか」という過去の妄想の検分に全エネルギーを奪われ、プログラミングのコードは一行も進まない。不眠はさらに悪化し、肌は土気色に変色し、食事の味は完全に消失した。
自宅での香織との時間も、絢斗にとっては別の意味での試練となった。
香織は、日に日に痩せ細り、上の空で生気のない笑顔を浮かべるようになった絢斗を、痛々しいほどの瞳で見つめていた。
「絢斗、本当にお願いだから、何があったのか話して。お医者さんに行ってから、余計におかしくなってるよ……。私じゃ、あなたの力になれないの?」
食卓に並んだ、彼女が一生懸命に作った温かいハンバーグ。そこから立ち上る湯気の向こうで、香織の瞳に涙が溜まっていく。
その優しさに、絢斗は胃がよじれるような罪悪感を覚えた。本当なら、彼女にすべてをぶちまけてしまいたかった。「僕は自分が人を殺したんじゃないかと怖くてたまらないんだ、大丈夫だと言ってくれ」と、彼女の胸に縋って泣き叫びたかった。
しかし、東条の冷酷な言葉が、絢斗の口を強制的に塞ぐ。
『恋人に同意や安心を求めることも、すべて強迫行為の巻き込みです。それをやれば、病気はさらに肥大化する』
「ううん、本当に何でもないよ、香織。新しいプロジェクトの設計がちょっと難航していて、頭を使いすぎているだけさ。心配させてごめんね」
絢斗は、完璧に計算された「優しい恋人の笑顔」を貼り付け、彼女の不安を言葉の壁で冷たく弾き返した。
香織に本音を隠し、彼女の優しさを拒絶すればするほど、絢斗の心の中で、香織という存在は「僕の病気を理解できない、日常の世界の住人」へと遠ざかっていった。そして同時に、自分のこの生き地獄のような苦しみのすべてを、カルテという冷徹な言語で共有している東条への依存度が、異常なまでに跳ね上がっていった。
(香織は優しい。でも、僕のこの脳内の地獄は理解できない。世界中で、あの無機質な診察室にいる東条先生だけが、僕の本当の姿を知っている。あの人だけが、僕の苦痛を正しく裁いてくれるんだ)
それは、砂漠で唯一の給水所に縋り付くような、歪んだ「陽性転移」の始まりだった。
そして、初診から一週間後。ついに二回目の診察日がやってきた。
今回は、仕事が外せないという律を伴わず、絢斗は一人で東条クリニックへと向かった。一人であることへの不安よりも、むしろ「律という邪魔者がいない、東条先生と二人きりの空間に行ける」という、倒錯した歓喜が胸の奥で微かに脈打っていることに、絢斗自身すら気づいていなかった。
クリニックの自動ドアをくぐり、受付を済ませる。
待合室のグレーのソファに深く腰掛け、絢斗は胸に抱えた一冊の大学ノートを、宝物のように両手で強く抱きしめていた。
それは、東条から課された行動記録ノートだった。この二週間、検索したい衝動に駆られるたび、振り返りたい狂気に襲われるたびに、その生き地獄のディテールを、震えるペンで克明に書き殴り続けた「血のカルテ」だ。
「成瀬絢斗さん、カウンセリング室へどうぞ」
スピーカーから、受付の静かな声が流れた。
絢斗の心臓が、跳ねるように高鳴った。彼はノートを落とさないようにしっかりと脇に抱え、立ち上がると、あの重い防音ドアへと迷いのない足取りで歩みを進めた。
ドアを開けると、二週間前と全く変わらない、白とグレーの無機質な空間がそこにあった。窓のブラインドは完全に閉じられ、二枚の高解像度モニターが冷たい光を放っている。
そしてデスクの奥には、チャコールグレーのスーツを完璧に着こなした五十代後半の医師・東条が、やはり感情の起伏を一切排したガラス玉のような瞳で、絢斗を迎えた。
「どうぞ、座ってください」
その低く硬質な声を聞いた瞬間、絢斗の身体から、不思議なほどスッと緊張が抜けていくのを感じた。ここは地獄の治療室であると同時に、絢斗が唯一「笑顔の仮面」を脱ぐことを許された、世界でただ一つの聖域だった。
絢斗は丸椅子に腰掛けると、自らの顔から笑みを完全に消し去り、ただ東条を見つめた。
そして、胸に抱えていた大学ノートを、両手で恭しく、デスクの上へと差し出した。
「東条先生……持ってきました。二週間、先生の指示を、何一つ破らずに耐え抜いた記録です」
絢斗の声は、極限の疲労で掠れていた。しかしその瞳には、厳格な父親に自らの手柄を認められたがっている子供のような、異常な熱がギラギラと宿っていた。
東条は、その絢斗の視線を気にかける風もなく、ただ淡々と手を伸ばし、提出されたノートを指先で受け取った。そして、重厚な万年筆をカチリと鳴らし、絢斗が書き連ねた「絶望の記録」のページを、冷淡に捲り始めた。
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