不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>東条は、室内に響くかすかな紙の擦れる音だけを伴わせながら、絢斗の提出したノートを一枚一枚、じっくりと捲り続けていた。</p><p>二週間。それは、一秒ごとに脳内で爆発する「人を殺したかもしれない」という恐怖のシナリオと、素手で殴り合いを続けさせられた二週間だった。ノートの記述は、日が経つにつれて文字の歪みが激しくなり、最後の方のページには、万年筆の筆圧が強すぎて紙が破れかけている箇所すらあった。</p><p>絢斗は、東条が自分の「地獄の記録」をどのように評価するのか、生殺しにされているような心地で待っていた。</p>
本文
東条は、室内に響くかすかな紙の擦れる音だけを伴わせながら、絢斗の提出したノートを一枚一枚、じっくりと捲り続けていた。
二週間。それは、一秒ごとに脳内で爆発する「人を殺したかもしれない」という恐怖のシナリオと、素手で殴り合いを続けさせられた二週間だった。ノートの記述は、日が経つにつれて文字の歪みが激しくなり、最後の方のページには、万年筆の筆圧が強すぎて紙が破れかけている箇所すらあった。
絢斗は、東条が自分の「地獄の記録」をどのように評価するのか、生殺しにされているような心地で待っていた。
心臓の鼓動が耳の奥でドクドクと鳴り響く。だが、不思議と不快感はなかった。むしろ、この冷徹な医師の視線が自分の記録に注がれているという事実そのものが、絢斗の渇ききった魂に、じわじわと奇妙な安堵感を染み渡らせていた。
やがて、東条はパタンとノートを閉じ、デスクの上に置いた。眼鏡の奥のガラス玉のような瞳が、じっと絢斗を射抜く。
「……インターネット検索、ゼロ。振り返りおよび現場への引き返し、ゼロ。周囲への安心の確認行動、ゼロ。二週間、あなたが私の提示した行動契約を、完璧に遂行したことがこの記録から読み取れます」
東条の声には、やはり「よく頑張りましたね」といった賞賛や、労いのニュアンスは微塵も含まれていない。ただの実験結果を報告するような、冷淡なトーンだった。
「主観的不安度(SUD)は、初診からの三日間はほぼ100に張り付いている。地下鉄ホームでの件、あるいは雨の夜の件、新しい侵入的思考が湧くたびに、あなたの脳内では激しいパニックが起きている。しかし、四日目の夜あたりから、不安の数値が一時的に80まで落ち、その後また跳ね上がる、という波が見られる。成瀬さん、この二週間、確認を奪われた世界はどうでしたか」
「……死ぬかと、思いました」
絢斗は、嘘偽りのない本音を、掠れた声で漏らした。もう東条の前で「完璧な青年の笑顔」を作る必要はなかった。
「一歩歩くたびに、背中から血を流した人が這い寄ってくるような錯覚に襲われました。スマホを手に取るたびに、指が勝手に動いて検索窓を開こうとしました。確認をしないということは、自分が『すでに人を殺して、平気な顔で逃げ回っている悪魔』であることを、そのまま受け入れるような恐怖でした。先生……本当に、気が狂いそうだったんです。何度も、全てを投げ出して世田谷のあの路地に走り出し、地面を舐めるようにして血痕がないか確認したい衝動に駆られました。でも……」
絢斗は一呼吸置き、デスクの上の東条の、細く綺麗な指先を見つめた。
「でも、ここで僕が戻ったら、東条先生に二度と診てもらえなくなる。先生に、不良品として捨てられてしまう。それだけが、あの恐怖よりも、何倍も怖かったんです。だから、耐えられました」
それは、患者が医師に向ける言葉としては、明らかに一線を越えた「告白」だった。
絢斗の瞳には、かつて彼が誰にも見せたことのない、暗く、熱い、異常な執着の光が宿っていた。彼は無意識のうちに、東条の中に「世界で唯一、自分の異常性を正しくジャックし、コントロールしてくれる絶対的な指導者」を見出していた。幼少期、自分を暴力で支配しながらも「完璧であること」を求めてきた歪んだ親の影。絢斗の傷ついた内なる子供(インナーチャイルド)は、東条の徹底した冷徹さと厳格さの中に、かつて得られなかった『僕を正しく支配し、導いてくれる理想の親』の幻影を強烈に重ね合わせ、盲目的に依存し始めていたのだ。
しかし、東条はその絢斗の熱を孕んだ視線を、冷酷なまでに突き放した。
「成瀬さん。勘違いしないでいただきたい」
東条は冷たく言い放ち、椅子の背もたれに身体を預けた。
「あなたが確認行為を踏み止まれたのは、私の存在のおかげなどではない。あなたが、私の『治療拒否』というペナルティを恐れ、ご自身の脳内で『確認をすることのデメリット』と『不安に耐えることのメリット』を天秤にかけた結果、自ら選択した行動です。私を精神的な支えにしようとするのはやめなさい。それは、強迫行為の対象がスマホから私という人間に変わっただけの、新たなる依存――『強迫的巻き込み』に過ぎません」
東条の言葉は、絢斗の淡い期待を容赦なく切り裂く、鋭いナイフだった。
(先生は、僕の気持ちなんてどうでもいいんだ。僕がどれだけ苦しんで、先生のために耐えたかなんて、これっぽっちも評価してくれないんだ――)
強烈な拒絶の痛みが絢斗の胸を抉る。しかし、不思議なことに、その痛みが深ければ深いほど、絢斗の東条に対する崇拝の念は、より強固なものへと変質していった。
もしここで、東条が「よく耐えましたね、偉いですよ」などと優しい言葉をかけてくれたなら、絢斗はかえって幻滅していただろう。なぜなら、彼の知る「優しい人間(香織や律)」は、誰も自分の脳内の怪物を止めることができなかったからだ。東条がここまで徹底して冷酷であり、自分の甘えや依存を一切許さずに叩き潰してくれるからこそ、絢斗にとって東条は「決して揺らぐことのない、絶対的な世界の基準」として機能するのだ。
「……すみません。僕が間違っていました」
絢斗は、むしろ恍惚とした表情さえ浮かべながら、深く頭を下げた。
「先生の言う通りです。僕はまた、先生に安心を求めようとしていました。……でも、教えてください。このノートの記録を見て、僕の治療は、正しく進んでいると言えるのでしょうか。これから、僕はどうすればいいんですか」
東条は、頭を下げる絢斗をしばらく無言で見つめていた。その静寂の時間が、診察室の空気の温度をさらに数度下げる。
やがて、東条は再び万年筆を手に取ると、電子カルテに向き直り、キーボードを叩きながら言った。
「進捗としては、極めて良好です。初期段階の反応妨害としては、100点と言っていい。あなたの脳は今、確認という『偽りの報酬』を得られなかったため、極度の飢餓状態にあります。だからこそ、新しい恐怖を次々と捏造して、あなたに確認をさせようと必死になっているのです。しかし、その暴動も長くは続きません。確認をしなければ、人間の脳はどれほど強い恐怖であっても、いずれその刺激に慣れ、不安のインフレは収束へと向かう。これが、ERPのメカニズムです」
東条は画面から絢斗へと視線を戻し、冷徹な、しかし明確な「指針」を告げた。
「次の二週間は、さらにステップを進めます。これまでは『湧き上がってきた恐怖に対する確認の禁止(反応妨害)』でしたが、次回からは『自ら進んで恐怖の現場に赴く(曝露)』を組み合わせてもらいます。成瀬さん、あなたが最も恐れているあの雨の路地へ、今度は徒歩で、夜間に赴きなさい。そして、その場に一時間、ただ立ち尽くすのです。もちろん、側溝を見ることも、生垣を触ることも一切禁止します。人を殺したかもしれないという最悪のイメージの渦中に、自らの意志で飛び込む。これが、あなたの次の試練です」
東条の口から語られた新たな課題は、絢斗にとって、地獄の業火の中に自ら飛び込めという命令に等しかった。
しかし、絢斗の胸の中に湧き上がったのは、恐怖だけではなかった。
(先生が、僕に次のステージを示してくれた。100点だと、僕の行動を正しく評価してくれた。あの地獄の路地へ戻れというなら、僕は戻る。先生のプログラム通りに、僕は自分の肉体を動かす。あの人が僕をそう裁くなら、それが僕の新しい現実だ)
絢斗の歪んだ陽性転移は、東条の冷酷な指針という名の「甘美な檻」の中に、自ら進んで両手首を差し出す狂気へと、完全に昇華されようとしていた。
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