不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>東条クリニックへと向かう地下鉄の車内で、成瀬絢斗は胸ポケットの上から、折りたたまれた数枚のワークシートを何度も指先で確かめていた。</p><p>それは、東条医師から課された「二週間の間に最低三回、夜間の現場へ赴き、一時間確認をせずに立ち尽くす」という、あの凄絶な曝露課題(エキスポージャー)の記録だった。</p><p>絢斗は、東条の期待を裏切らないため、そして何よりもあの冷徹な医師に自らの存在を完璧に承認してもらうために、指示された「三回」を遥かに上回る、計五回もの夜間曝露を自らに課し、完璧にやり遂げていた。</p>
本文
東条クリニックへと向かう地下鉄の車内で、成瀬絢斗は胸ポケットの上から、折りたたまれた数枚のワークシートを何度も指先で確かめていた。
それは、東条医師から課された「二週間の間に最低三回、夜間の現場へ赴き、一時間確認をせずに立ち尽くす」という、あの凄絶な曝露課題(エキスポージャー)の記録だった。
絢斗は、東条の期待を裏切らないため、そして何よりもあの冷徹な医師に自らの存在を完璧に承認してもらうために、指示された「三回」を遥かに上回る、計五回もの夜間曝露を自らに課し、完璧にやり遂げていた。
深夜の世田谷の路地。暗闇の中で「人を殺したかもしれない」という脳内の怪物が発する悲鳴に耳を塞ぎ、生垣を覗き込みたい、側溝を照らしたいという狂おしいほどの衝動を、東条への信仰心だけですべてねじ伏せた。シートの記録欄には、主観的不安度(SUD)が「100」から「40」へと減衰していくプロセスが、極めて論理的に、かつ非の打ち所のない美しさで書き込まれている。
(これを見れば、東条先生はきっと僕を認めてくれる。僕が、他のどんな患者よりも先生の教えを忠実に守り、完璧に脳のバグを制御しようとしている『最高の生徒』であることを、分かってくれるはずだ)
胸の奥を突き動かすのは、かつて幼少期に、どれほどテストで満点を取っても自分を殴り続けた実の父親からは決して得られなかった、「厳格な絶対者からの承認」への渇望だった。絢斗にとって東条は、治療者という枠を完全に踏み越え、自分の魂を正しく支配し、導いてくれる「理想の親」そのものへと神格化されていた。
エレベーターを降り、クリニックの重いガラスの自動ドアをくぐる。
カチャリ、という静かな電子音とともに、お馴染みの白とグレーで統一された無機質な空間が絢斗を迎えた。いつも通りの、過剰なほどに冷やされた乾いた空気。しかし、受付を済ませて待合室のエリアへと足を踏み入れた瞬間、絢斗は歩みを止め、わずかに眉をひそめた。
いつもは閑散としているはずの待合室が、今日は奇妙な熱気と、どんよりとした澱んだ空気に満ちていた。
グレーのローソファには、先客が三人、互いに距離を置いて座っていた。
一人は、ボロボロのビジネスバッグを膝の上で強く抱きしめ、小刻みに貧乏揺すりを続けている、三十代半ばほどのサラリーマン風の男。その目は完全に血走り、ブツブツと何事かを拒絶するように小声で呟き続けている。
もう一人は、長い前髪で顔を完全に隠し、自身の親指の爪を、出血しているのも構わずに執拗に噛みむしり続けている若い青年。
そしてもう一人は、ソファの端で虚空を睨みつけながら、時折、思い出したように自身の衣服の袖を何度も何度も強く引っ張る動作を繰り返している中年の女性。
彼らが醸し出す、隠しきれない精神の腐乱臭と、強迫症特有の「終わりのない儀式」の気配。
それを視界に収めた瞬間、絢斗の胸の奥から、どす黒い、激しい嫌悪感がせり上がってきた。
(なんなんだ、この場所は……。ひどく醜い。まるで、壊れた廃棄処分寸前の機械が、ただオイルを垂らしながら並べられているみたいだ)
これまでの絢斗であれば、同じ病に苦しむ患者たちに対して、痛ましいほどの共感や同情を覚えたかもしれない。しかし、東条への異常な陽性転移を深め、自らを「選ばれた存在」だと錯覚し始めている今の彼の認知は、待合室の光景をまったく別の歪んだフィルターで捉えていた。
絢斗は、彼らと同じソファに座ることさえ忌まわしく感じ、少し離れた一人掛けの椅子に腰を下ろした。そして、自身の衣服に彼らの「弱さ」が伝染するのを防ぐように、背筋をピンと伸ばし、いつもの「誠実で完璧な青年の仮面」を顔に貼り付けた。
(彼らは、東条先生の神聖な時間を奪っている泥棒だ)
絢斗は、手元でワークシートを握りしめながら、ソファの患者たちを冷酷な瞳で見下した。
彼らのような、不安に耐えきれずに爪を噛み、ブツブツと確認を繰り返し、自らをコントロールすることもできない凡俗な有象無象が、なぜ東条先生の診察を受ける権利を持っているのだろうか。東条先生のあの明晰な頭脳、あの冷徹で美しいロジックは、自分のように「命を懸けて課題を遂行できる人間」のためにだけ使われるべきではないのか。
彼らが先生の貴重なエネルギーを消費し、先生のカルテを汚しているという事実に、絢斗の胸の中で、これまで経験したことのない激しい焦燥感と、独占欲の炎がパチパチと音を立てて燃え上がり始めた。
カウンセリング室の重い防音ドアを見つめる。あの奥には、自分の神である東条がいる。今、あの扉の向こうで、先生は誰のカルテを見ているのだろうか。まさか、ここにいる醜い患者たちのことを考えているのではないか。そう思っただけで、絢斗は自分の大切な宝物を、泥棒たちに土足で弄ばれているかのような猛烈な不快感に襲われた。
「二〇三番の方、第一診察室へどうぞ」
受付の事務的なアナウンスが室内に響いた。
爪を噛んでいた若い青年が、ビクリと肩を跳ね上げ、おどおどとした足取りで立ち上がった。彼は何度も自分の足元や、座っていたソファの隙間に「忘れ物がないか」を執拗に確認し、受付の女性スタッフに急かされるようにして、カウンセリング室のあの重いドアの向こうへと吸い込まれていった。
バタン、とドアが閉まり、再び待合室に静寂が戻る。
絢斗は、閉ざされたドアの前に残された空間を、激しい嫉妬の眼差しで見つめ続けた。あの青年は今、東条先生と二人きりの空間にいる。東条先生のあの冷たいガラス玉のような視線を、独占しているのだ。自分ですら二週間に一度しか許されないあの「聖域」に、あんな出来損ないの青年が足を踏み入れているという事実が、絢斗の精神を狂おしいほどに掻きむしった。
ポケットの中のワークシートが、絢斗の指の圧力でミリミリと音を立てて歪んでいく。
待合室の冷房の音だけが、彼の耳の奥で、まるでディストピアの警告サイレンのように、低く、不気味に響き続けていた。
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