不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>待合室の壁に掛けられた、これといった特徴のない丸い時計の秒針が、カチ、カチ、と無機質な音を刻んでいる。</p><p>その一刻みが、今の絢斗にとっては一時間にも感じられるほど、診察室の前に流れる時間は果てしなく、そして残酷に引き延ばされていた。</p><p>先ほどあの重い防音ドアの向こうへと消えていった、爪を噛んでいた若い青年。彼が中に入ってから、すでに二十分が経過しようとしていた。</p>
本文
待合室の壁に掛けられた、これといった特徴のない丸い時計の秒針が、カチ、カチ、と無機質な音を刻んでいる。
その一刻みが、今の絢斗にとっては一時間にも感じられるほど、診察室の前に流れる時間は果てしなく、そして残酷に引き延ばされていた。
先ほどあの重い防音ドアの向こうへと消えていった、爪を噛んでいた若い青年。彼が中に入ってから、すでに二十分が経過しようとしていた。
絢斗は一人掛けの椅子の上で、微動だにせず、ただ正面のドアを睨みつけ続けていた。指先は、ポケットの中でワークシートの端を何度も執拗になぞっている。爪の間に上質な紙の感触が食い込み、かすかな痛みを伝えてくるが、今の絢斗にはその痛みすら、東条という存在と物理的に繋がっているための頼りない命綱のように思えた。
(二十分……。長すぎる。先生は、あの醜い泥棒と二十分間も、同じ空気を吸っているのか? あの明晰で冷徹な先生が、あんな自己管理すらできない人間の、くだらない確認の言い訳を聞かされているのだとしたら、それはあまりにも神聖な時間の冒涜だ)
絢斗の脳内では、防音ドアの向こうで行われているであろう「診察」の光景が、おぞましい妄想となってぐるぐると渦巻いていた。
東条先生が、あの少年に向けて眼鏡の奥のガラス玉のような瞳を向けている。あの、世界のすべてを見通すような硬質で低い声で、言葉を紡いでいる。たとえそれが、自分に向けられた時と同じ冷酷な突き放しであったとしても、その言葉が、その視線が、自分以外の誰かに消費されているという事実そのものが、絢斗の胸を激しい焦燥感で焼き焦がしていた。
かつて、幼少期の絢斗が、居間の片隅で息を潜めていた時の記憶が唐突に蘇る。
日曜日、機嫌の悪い実の父親が、自分のテストの成績表を冷ややかに見つめていたあの時間。父親の視線を自分だけに釘付けにするために、完璧な子供でいようと必死に笑顔を作り、呼吸のタイミングすらコントロールしていたあの窒息しそうな空間。あの時、もし他の誰かが父親の関心を一瞬でも奪おうとしたなら、絢斗は激しい恐怖と、それを上回る強烈な憎悪を抱いたはずだった。
今のカウンセリング室のドアは、まさにあの頃の「絶対的な支配者の部屋」そのものだった。そして東条は、絢斗が人生で初めて出会った、自分を完璧に支配し、導いてくれる「理想の父親」なのだ。
(先生を、他の患者に渡したくない。あの先生の冷徹さは、僕のように完璧に課題をこなせる選ばれた人間にだけ、注がれるべきなんだ)
独占欲が、まるで体内で増殖する黒いカビのように、絢斗の精神のすべての隙間を埋め尽くしていく。
その時、カチャリ、と待合室の静寂を破る明確な音が響いた。
絢斗の身体が、まるで電流を流されたように跳ね上がった。視線を鋭くドアへと向ける。
重い防音ドアが、ゆっくりと外側に向かって開いた。
そこから姿を現したのは、先ほど中に入っていったあの若い青年だった。
しかし、彼の姿は、入室する前よりもさらに無残に崩壊していた。
青年の顔は赤黒く充血し、目元は涙と脂汗でドロドロに濡れていた。細い肩は、まるで激しい寒気の中に放り出されたかのようにガタガタと小刻みに震えている。彼は自分の胸元を両手で強くかきむしりながら、過呼吸特有のヒュー、ヒューという、浅く鋭い風切り音を喉から漏らしていた。
青年は、診察室の中で、東条から過酷な「曝露の宣告」を受けたのだろう。あるいは、不安を消してくれと泣きついたところを、あの冷酷なロジックで徹底的に叩き潰されたのかもしれない。彼は、立っていることすらままならない様子で、壁にペタペタと手を突きながら、這い出るようにして待合室へと退室してきた。
その哀れな姿を見ても、今の絢斗の心には、塵ほどの同情も湧かなかった。むしろ、先生の神聖な部屋を涙で汚し、醜態を晒しているその存在への嫌悪感が、胃の奥から吐き気となってせり上がってくる。
(見苦しい。先生の治療を受ける資格なんて、最初から君にはないんだ)
絢斗が心の中でそう冷笑し、青年から視線を外そうとした、その瞬間だった。
開いた防音ドアの隙間から、チャコールグレーのスーツを完璧に着こなした東条医師が、静かに姿を現した。彼はデスクから立ち上がり、部屋の境界線まで、泣き崩れる青年を追うようにして歩いてきたのだ。
東条は、ドアノブに長い指をかけたまま、廊下にうずくまりそうになっている青年を、上から冷酷に見下ろした。その眼鏡の奥の瞳には、やはり一滴の憐れみも、人間的な温もりも存在しなかった。
東条は、胸のポケットから重厚な万年筆を抜くと、それを手元でカチリと鳴らし、青年へと向けて、極めて事務的な、しかし冷徹な声を掛けた。
「泣くことは、強迫観念を薄めるための反応妨害には含まれません。時間の無駄です。次回までに、指示した課題のシートをすべて埋めてきなさい。それができなければ、あなたの治療は次回で終了します。……次の方、どうぞ」
それは、ほんのわずかな、機械の警告音と変わらない事務的な声かけだった。他者への配慮など皆無の、冷たく突き放すための言葉。
しかし、その瞬間、絢斗の脳内で、何かが決定的に爆発した。
ドクン、と心臓が狂ったような音を立てて脈打つ。頭の芯がカッと熱くなり、視界が真っ赤に染まるような激しい衝撃が、彼の全身を駆け巡った。
東条先生が、あの醜く泣き叫ぶだけの青年に向けて、声を掛けた。
自分の肉体を動かし、ドアのところまで歩いてきて、あの人の口から発せられた言葉の波動を、あの青年のためだけに消費した。
たとえそれが、ペナルティを課すための冷酷な宣告であったとしても、東条が自分以外の患者に関心を向け、その存在を「視界に収めた」という厳然たる事実が、絢斗の胸の中に、狂気的なまでの強烈な嫉妬と、底なしの焦燥感を燃え上がらせたのだ。
(なぜだ……なぜ、あんな奴に声をかけるんだ? 先生の言葉は、先生の指針は、僕だけのものじゃないのか!? 僕は二週間、あの地獄の路地で、先生のためだけに完璧に耐え抜いたんだぞ! なのに、なぜ先生は、あんな課題すらできずに泣いているだけのゴミクズを、まだ治療しようとしているんだ!?)
ポケットの中のワークシートが、絢斗の指の力で完全にくしゃくしゃに握りつぶされた。
爪が手のひらに深く食い込み、微かに皮膚が裂ける感覚があったが、胸を引き裂くような嫉妬の苦しみに比べれば、そんなものは無に等しかった。
絢斗の瞳は、激しい怒りと飢餓感に満ち、うずくまる青年と、その後ろに立つ東条の姿をギラギラと睨みつけていた。
「先生にとっての、特別な子供になりたい」
その歪んだ執着が、待合室の凍りつくような空気の中で、完全にその牙を剥こうとしていた。
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