不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>防音ドアが閉まった瞬間、診察室の中は完全な静寂に支配された。</p><p>外の待合室にあった、他の患者たちが放つ醜悪な泥濁りの空気は、この白とグレーの聖域には一滴たりとも侵入を許されていない。ブラインドの隙間から差し込むかすかな光と、デスクの上に鎮座する二枚の高解像度モニターの青白い輝きだけが、部屋を無機質に満たしている。</p><p>絢斗は、促されるままにいつもの丸椅子へと腰を下ろした。</p>
本文
防音ドアが閉まった瞬間、診察室の中は完全な静寂に支配された。
外の待合室にあった、他の患者たちが放つ醜悪な泥濁りの空気は、この白とグレーの聖域には一滴たりとも侵入を許されていない。ブラインドの隙間から差し込むかすかな光と、デスクの上に鎮座する二枚の高解像度モニターの青白い輝きだけが、部屋を無機質に満たしている。
絢斗は、促されるままにいつもの丸椅子へと腰を下ろした。
対面に座る東条医師は、高級な万年筆を細い指先で弄びながら、眼鏡の奥のガラス玉のような瞳で、静かに絢斗を見つめていた。その視線に人間的な温もりは一切ない。だが、今の絢斗にとっては、その徹底した冷徹さこそが、自分を全肯定してくれる最高の愛のように感じられていた。
「成瀬さん。顔色が随分と悪いようですが、この二週間、課題の進捗はどうでしたか」
東条の硬質で低い声が、診察室の空気を震わせる。
待っていた。絢斗はこの瞬間のために、あの生き地獄のような二週間を生き延びてきたのだ。
「先生、これを見てください」
絢斗は、極限の緊張と歓喜で震える両手を使って、デスクの上にワークシートを差し出した。待合室で自らの嫉妬と焦燥によってくしゃくしゃにしてしまい、必死に手のひらで引き伸ばした、あのシワだらけの紙切れだ。
「先生の指示は『最低でも三回、夜間の現場へ赴き、一時間確認をせずに留まる』でした。ですが、僕は先生のプログラムをより確実に、完璧に遂行したかった。だから、三回ではなく、五回行きました。深夜のあの路地で、強迫観念が暴れ狂う中、一秒の狂いもなく五時間、すべての確認行為を完璧に禁止し続けました。これが、僕の戦いの記録です」
絢斗は身を乗り出し、一気に言葉を捲し立てた。彼の瞳には、熱病のような異常な光が宿っている。くしゃくしゃになったシートには、主観的不安度(SUD)が「100」から「40」へと減衰していく数値が、執念深いほどの細かい文字でびっしりと書き込まれていた。
(さあ、先生。僕を見て。僕を認めて。あそこにいる泣き叫ぶだけのゴミクズや、袖を引っ張るだけの家畜とは違う、僕だけがあなたの最高の人形であることを、その口から証明して――)
幼少期、父親の前にテストの点数を差し出した時と同じ、心臓が爆発しそうなほどの渇望。絢斗は東条からの「100点だ」という極上の承認を、今か今かと待ち構えていた。
しかし、東条は差し出されたシワだらけのシートを、指先で一度も触れることすらしなかった。
彼はただ、眼鏡の位置をわずかに直すと、画面から絢斗へと視線を戻し、冷酷なまでにフラットな声で言い放った。
「成瀬さん。私はあなたに、五回行けなどという指示はしていません」
「え……?」
絢斗の脳内で、ピキリ、と何かが凍りつくような音がした。
東条の声には、賞賛はおろか、微かな落胆さえ含まれていた。いや、落胆という感情すらなく、ただ「エラーコード」を指摘する機械のような冷たさだった。
「私の指示は『最低三回』、つまり治療のプロトコルとして脳の神経回路に適切な負荷をかけるための、必要十分な回数です。それをあなたが五回に増やした。これは、治療の成功を求めた前向きな行動ではありません。明白な、新たな強迫行為への変質です」
「強迫、行為……? 僕が、先生の指示以上に頑張ったことが、ですか……?」
絢斗の声が裏返った。血の気が一気に引き、頭の芯が凍りついていく。
「その通りです」
東条は万年筆をデスクに置くと、容赦のないロジックで、絢斗の拠り所としていた全能感を木っ端微塵に打ち砕いていった。
「あなたが回数を増やしたのは、なぜですか? 『三回では足りないかもしれない』『もっとたくさんやれば、それだけ確実に安心できるかもしれない』という不安に、あなたの脳が負けたからです。つまり、あなたは曝露という治療行為そのものを、自らの安心を得るための『儀式』として利用した。課題を過剰にこなすことで私に認められたいというその幼児的な承認欲求もまた、強迫観念を隠蔽するための歪んだ防衛反応に過ぎない。このシワだらけのシートが、あなたの内面のパニックと不完全恐怖をそのまま証明しています」
東条の言葉は、絢斗が命懸けで築き上げてきた「特別な子供」という名の砂の城を、一瞬で踏みつぶす容赦のない暴風だった。
(違う。僕は先生のために……先生に捨てられたくないから、必死で耐えたんだ。あんな待合室にいる奴らとは違うって、証明したかっただけなのに――)
激しい絶望と、内臓を素手で掻きむしられるような屈辱感が絢斗を襲う。東条は、自分を特別視などしていない。あの待合室にいた、泣き叫ぶ青年や薄汚れたサラリーマンと、全く同じ「バグを起こした一患者」として、冷淡に観察しているだけなのだという現実が、鋭いナイフとなって絢斗の胸に突き刺さった。
「今のあなたは、治療が進んでいるどころか、私という治療者への過剰な依存と、強迫的完璧主義の泥沼に深く嵌まり込んでいます。成瀬さん、勘違いを重ねるのはやめなさい。あなたが完璧な人形になろうとすればするほど、あなたの強迫症はより巧妙な形で肥大化していく」
東条は電子カルテに視線を戻し、キーボードを叩きながら、三回目の診察の、最も残酷な「現実」を宣告した。
「次回の二週間は、回数を指定しません。『一回も行かないこと』。それがあなたの次の課題です。現場へ行きたい、完璧にこなして私に報告したいというその強迫衝動を、今度は『何もしない』ことで妨害しなさい。……以上です」
頭を殴られたような衝撃の中、絢斗はどのようにして診察室を出たのか、記憶が定かではなかった。
気づけば、彼はクリニックを出て、夕暮れの激しい雑踏の中に立っていた。
胸のポケットには、東条が一度も受け取らなかった、あのクシャクシャのワークシートが残されている。
「あ、ああ、あああ……っ!」
絢斗の胸の奥で、ドロドロとした黒い感情が、ついに臨界点を突破して暴走を始めた。
東条への崇拝は、拒絶されたことによる激しい飢餓感と混ざり合い、より狂気的な、おぞましい執着へと変質していく。
(先生が僕を認めないのは、僕の曝露がまだ足りないからだ。先生の言う『何もしない』なんて生ぬるい課題じゃ、僕はあの待合室のゴミクズたちと同じになってしまう。僕は、もっと特別な存在にならなきゃいけないんだ。先生のカルテに、一生消えない傷跡として、僕の名前を刻みつけてやる――)
現実の世界への帰還路を完全に爆破した絢斗の精神は、東条という「理想の親」の愛を無理やり毟り取るために、さらに深い、破滅的な狂気の深淵へと、自ら濁流の中に身を投じるように突き進んでいくのだった。
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