不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>東条医師から「一回も現場に行かないこと」という、あまりにも過酷な、そして残酷な課題を課されてから、成瀬絢斗の頭脳はまともな思考能力を失っていた。</p><p>これまでは、頭の中に「人を殺したかもしれない」という強迫観念の怪物が暴れ出しても、深夜の路地という戦場に自ら赴き、そこで一時間生身で耐え抜くという「曝露(エキスポージャー)」を行うことで、辛うじて精神の均衡を保つことができていた。それは凄絶な苦痛を伴う地獄であったが、同時に「東条先生の命令を完璧に遂行している」という全能感と、濃厚な精神的救済を絢斗に与えていたのだ。</p><p>しかし今、その唯一の逃げ道が完全に塞がれた。</p
本文
東条医師から「一回も現場に行かないこと」という、あまりにも過酷な、そして残酷な課題を課されてから、成瀬絢斗の頭脳はまともな思考能力を失っていた。
これまでは、頭の中に「人を殺したかもしれない」という強迫観念の怪物が暴れ出しても、深夜の路地という戦場に自ら赴き、そこで一時間生身で耐え抜くという「曝露(エキスポージャー)」を行うことで、辛うじて精神の均衡を保つことができていた。それは凄絶な苦痛を伴う地獄であったが、同時に「東条先生の命令を完璧に遂行している」という全能感と、濃厚な精神的救済を絢斗に与えていたのだ。
しかし今、その唯一の逃げ道が完全に塞がれた。
「何もしないこと。それが次の課題です」
あの冷徹なガラス玉のような瞳で告げられた宣告が、絢斗の肉体を自宅のリビングに縛り付けていた。
現場に行くことは許されない。確認行為は一切禁止。暴れ狂う強迫衝動のエネルギーは、行き場を完全に失い、絢斗の体内でドロドロとしたマグマのように渦巻いていた。その結果、彼の異常な執着は、治療そのものから「東条雅彦」という人間そのものへと、完全に牙を剥いて向かい始めていた。
スマートフォンの画面が、深夜のリビングで青白く絢斗の顔を照らし出している。
彼の親指は、狂ったような速度で画面をスクロールし続けていた。検索窓に入力されているのは、何日も前から変わらない文字列だ。
【東条メンタルクリニック 評判】【東条雅彦 論文】【強迫症 東条 認知行動療法 口コミ】
絢斗は、インターネットの海に散らばる、東条に関するあらゆる断片的な情報を、貪るように、そして執拗に検索し、読み漁っていた。それは、東条から現場への曝露を禁じられた絢斗が、精神の飢餓感を埋めるために編み出した、新たなおぞましい「儀式」だった。
医療系の口コミサイトや、匿名の掲示板に書き込まれた東条への評価を、彼は一つずつ精査していく。
『とにかく冷たい先生です。患者の気持ちに寄り添うなんて気は全くありません。マシーンのよう。ロボットに説教されているみたいで、私は余計に病みました』
『お勧めしません。カウンセリング中に泣いてしまったら「泣くのは時間の無駄だ」と事務的に突き放されました。二度と行きません』
それらの悪評を目にするたび、絢斗の唇の端は、歪な優越感によって小さく吊り上がった。
(凡俗な奴らめ。先生のあの崇高な冷徹さは、お前たちのような覚悟のない不良品をあぶり出すための、神聖なフィルターなんだよ。あの先生の本当の価値を、あのロジックの美しさを正しく理解できるのは、世界中で僕だけなんだ)
ネットの向こうの顔も知らない他者を見下すことで、絢斗の歪んだ選民思想は満たされ、東条への帰依はさらに深まっていった。しかし、その歪んだ歓喜は、次の書き込みを見た瞬間に、一気にドロドロとした強烈な嫉妬の劇薬へと反転する。
『東条先生のおかげで、長年苦しんだ確認癖から抜け出すことができました。厳しい先生ですが、先生の言う通りに課題をこなせば、必ず道が開けます。私にとっては命の恩人です』
「……っ!」
絢斗の指が、スマホの画面を割りそうなほどの力で止まった。心臓がドクンと嫌な音を立てて脈打ち、胃の奥から不快な酸がせり上がってくる。
(誰だ……こいつは。先生の言う通りに課題をこなしただと? 命の恩人だと? ふざけるな。先生を『私の恩人』なんて安っぽい言葉で呼ぶな。先生の指針を、先生の言葉を、僕以外の人間が完璧に体現したかのように書くのは止めろ!)
待合室で覚えたあの狂気的な独占欲が、ネットの書き込み一つに対してすら暴発する。東条を他の誰にも渡したくない。自分だけが先生の「最高の子供」であり、唯一無二の理解者でなければならないのに、過去に東条によって救われたという名もなき患者の存在が、絢斗の胸を激しい焦燥感で掻きむしった。
「絢斗……? ご飯、全然進んでないよ。口に合わなかった?」
唐突に、すぐ目の前から届いた優しく、しかしどこか怯えたような声が、絢斗の脳内の世界を鋭く切り裂いた。
絢斗はハッと我に返り、ゆっくりと視線を上げた。
目の前には、ダイニングテーブルを挟んで、恋人の香織が座っていた。テーブルの上には、彼女が夕方から時間をかけて作ったであろう、彩りの良い温野菜のサラダと、湯気を立てるチキンのトマト煮込みが並んでいる。しかし、絢斗の箸は、食事の開始から二十分が経過しているにもかかわらず、サラダのトマトを一つ突いただけで、完全に止まっていた。
「あ……ごめん、香織。ちょっと、仕事のことで考え事をしていてさ」
絢斗は一瞬で、いつもの「優しく誠実な恋人」の仮面を顔に貼り付け、スマホの画面を下にしてテーブルに伏せた。そして、取り繕うようにチキンをフォークで突き、口へと運ぶ。
しかし、その肉の味は、今の絢斗には砂を噛んでいるのと全く変わらなかった。彼の脳のリソースの九割九分は、今もなお、スマホの裏側に隠された東条のデータと、脳内で暴れる嫉妬の炎によって占有されていたからだ。
香織は、自分の茶碗を持ったまま、動こうとしない。彼女の瞳は、目の前にいるはずの恋人を、まるで「透明な幽霊」でも見るかのような、深い孤独と不信に満ちた眼差しで見つめていた。
「仕事のこと……本当に、仕事のことなの?」
香織の声が、微かに震えていた。
「最近の絢斗、ずっとそう。家にいても、ご飯を食べていても、ベッドに入っても、ずっとそのスマホを離さない。私と目が合っても、あなたは私のことを見ていない。どこか遠くの、私には見えない別の世界をずっと見つめているみたい。ねえ、絢斗。本当は、何が起きているの……?」
香織の言葉は、切実な悲鳴だった。この数週間、目の前で確実に崩壊していく恋人を繋ぎ止めようとする、彼女なりの必死の抵抗だった。
しかし、東条の「甘美な檻」の最深部に囚われている絢斗にとって、その香織の純粋な訴えは、自分の神聖な領域を侵そうとする、極めて不快で鬱陶しい「ノイズ」にしか聞こえなかったのだ。
ひび割れは、もう修復不可能なほどに、二人の日常の足元で深く静かに広がっていた。
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