不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>『……成瀬、お前、今自宅か? 隣に香織ちゃんはいないな』</p><p>スマホの向こうから聞こえる五味の声は、いつも居酒屋で大声を上げている時の快活さなど微塵もなく、低くざらついた緊張感を帯びていた。</p><p>絢斗は、香織が先ほど入っていった寝室のドアを一瞥した。ドアの隙間から漏れていた明かりはすでに消え、沈黙が支配している。</p>
本文
『……成瀬、お前、今自宅か? 隣に香織ちゃんはいないな』
スマホの向こうから聞こえる五味の声は、いつも居酒屋で大声を上げている時の快活さなど微塵もなく、低くざらついた緊張感を帯びていた。
絢斗は、香織が先ほど入っていった寝室のドアを一瞥した。ドアの隙間から漏れていた明かりはすでに消え、沈黙が支配している。
「はい、一人です。リビングにいます。……こんな時間に、何か緊急のトラブルでもありましたか?」
絢斗は、声のトーンを均一に保ちながら問いかけた。ここでも「優秀で冷静な部下」の仮面を迅速に装着する。しかし、彼の内面は、東条から課された「何もしない」という課題の禁断症状と、香織との精神的な切断によって、すでにどす黒い疲弊に満ちていた。そこへ割り込んできた五味の電話は、彼の神経をさらに不快に逆撫でするものでしかなかった。
『トラブルというか……お前のことだ、成瀬』
五味は小さくため息をつき、言葉を選び直すように少しの間を置いた。
『今日の夕方、お前が提出したクライアント向けの予算進捗管理表な。あれ、データの最終更新日時が定時の三時間後になってた。お前、デスクで何回あのファイルを上書き保存した?』
五味の具体的な指摘に、絢斗の背筋に冷たいものが走った。
「それは……数字に誤りがあってはいけないと思って、入念にチェックを重ねていたんです。慎重を期すのは、僕たちの仕事において当然のことだと――」
『入念のレベルを超えてるんだよ!』
五味の声が、受話口の向こうで一段と鋭さを増した。
『共有サーバーのログを見たんだ。お前、同じエクセルファイルを、三時間の間に四十七回も上書き保存してるんだぞ。それだけじゃない。最近のお前、メールを一本送るのにも、送信ボタンを押した後に「本当に送信されたか」「添付ファイルに間違いはないか」って、送信済みトレイを何十分も凝視してブラウザをリロードし続けてるだろ。隣の席の島田が、気味悪がって俺に相談しにきたんだ。「成瀬先輩が、壊れた機械みたいに同じ画面をずっとクリックし続けてる」ってな』
「……っ」
絢斗は絶句した。
自分では完璧に隠しているつもりだった。職場で強迫観念が首をもたげた時、周囲に気づかれないよう、ごく自然な動作を装って「確認の儀式」を行っていたはずだった。だが、彼を蝕む病魔は、すでにカモフラージュの限界を超えて、周囲の人間が恐怖や違和感を覚えるほどに露骨な異常行動として、外の世界へと漏れ出していたのだ。
『成瀬。お前、最近完全に上の空だろ。会議中も、手元でずっとスマホをいじって何かを熱心に検索してる。話しかけてもワンテンポ遅れて、マニュアル通りの生気のない返事しか返ってこない。今日のプレゼン資料だって、お前のパートだけ数字は合ってるが、内容がスカスカで熱量が全く感じられなかった。お前、一体何に脳みそを乗っ取られてるんだ?』
五味の言葉は、職場の先輩としての純粋な心配であり、同時に、ビジネスの組織人としての限界を示す冷酷な「警告」でもあった。
『来月から始まる大型の新規プロジェクト、俺はお前をメイン担当に推薦するつもりだった。だけど、今の状態のお前をクライアントの前に出すわけにはいかない。お前が真面目で、誰よりも仕事ができる奴だってことは俺が一番知ってる。だからこそ言うんだ。……成瀬、お前、何か精神的に追い詰められてるんじゃないか? 悪いスピリチュアルなセミナーとか、変な宗教にでも引っかかってんのか? もしそうなら、今すぐ目を覚ませ』
変な宗教。
五味が発したその単語を聞いた瞬間、絢斗の脳内で、冷徹な怒りの炎が爆発した。
(宗教だと? 不届き者が。何も知らないくせに、僕と東条先生の関係をそんな安っぽい言葉で汚すな。先生は、僕の脳のバグを、この世界の誰よりも論理的に解明してくれている唯一の神聖な指導者だ。五味さんのような、ただ目の前の数字を追うだけの凡俗なサラリーマンに、先生のあの高潔なロジックの美しさが分かってたまるか――)
絢斗の瞳の奥に、獣のようなギラついた敵意が宿る。五味の警告は、絢斗を現実の世界へ引き戻すための温かい救いの手だった。しかし、東条の「甘美な檻」に骨まで浸かっている今の絢斗にとって、それは自分と東条の神聖な結びつきを邪魔し、引き離そうとする、極めて不快で愚劣な「外の世界のノイズ」でしかなかった。
だが、ここでも絢斗の「現在の衝突への恐怖」が作動した。
職場で五味と大喧嘩をしたり、異常性を認めたりして、プロジェクトから外されるような事態になれば、自分の社会的地位という「日常の隠れ蓑」が失われる。そうなれば、東条クリニックへ通うための経済的基盤も、先生の前で「優秀な青年」を演じるための舞台も、すべて崩壊してしまう。それだけは、絶対に避けなければならない。
絢斗は一瞬で胸の内の憎悪を凍りつかせ、感情を完全に麻痺させた。そして、香織に対して行ったのと全く同じ、精巧な「謝罪のマニュアル」を脳内から引っ張り出してきた。
「……五味さん。本当に、申し訳ありません。ご指摘の通り、弁解の余地もありません」
絢斗の声は、深い反省と、自らの非を全面的に認める従順な部下の響きへと完璧に切り替わった。
「実は、ここ数週間、ひどい不眠症に悩まされていまして……。夜中に何度も目が覚めてしまい、日中の集中力が著しく低下していたんです。確認行為が増えてしまったのも、寝不足のせいで自分の仕事に自信が持てず、過剰に不安になってしまっていたのが原因です。島田にも、五味さんにも、多大なご迷惑とご心配をおかけして、本当に申し訳ありません」
流暢に、淀みなく滑り出てくる嘘の言葉。不眠症という、社会的に受け入れられやすい「無害な理由」を隠れ蓑にすることで、自らの内面にある東条への狂気的な依存と、強迫症の真の深淵を完全に遮蔽しようとしたのだ。
「来月のプロジェクト、僕にやらせてください。今夜からしっかり休んで、体調を必ず立て直します。明日からは、確認行為も意識して一回に留めますし、会議中の態度も改めます。五味さん、どうか、もう一度だけ僕を信じてチャンスをいただけないでしょうか」
絢斗は、受話口に向かって深々と頭を下げながら、冷え切った声でそう懇願した。現在の衝突を回避し、五味という「外の世界の脅威」を一時的に退けるためだけに、彼はプライドも感情もすべて捨て去り、完璧な平謝りを演じ続けていた。
その瞳の奥には、五味に対する感謝など微塵も存在しなかった。ただ、この場を早く終わらせ、東条のデータへと意識を戻したいという、飢えたような執着だけが、暗い火花を散らしていた。
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