不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>窓のない第3会議室の空気は、稼働し続けるプロジェクターの排気熱のせいで、じっとりと生暖かく濁っていた。</p><p>壁際に置かれた空気清浄機がブー、と低い唸りを上げているが、室内に充満した重苦しい沈黙をいささかも和らげることはない。長机を囲む男たちの顔は、どれも一様に青白く、あるいは怒りと焦燥で赤黒く充血していた。</p><p>成瀬絢斗は、その張り詰めた空間の片隅で、背筋を不自然なほど真っ直ぐに伸ばして座っていた。</p>
本文
窓のない第3会議室の空気は、稼働し続けるプロジェクターの排気熱のせいで、じっとりと生暖かく濁っていた。
壁際に置かれた空気清浄機がブー、と低い唸りを上げているが、室内に充満した重苦しい沈黙をいささかも和らげることはない。長机を囲む男たちの顔は、どれも一様に青白く、あるいは怒りと焦燥で赤黒く充血していた。
成瀬絢斗は、その張り詰めた空間の片隅で、背筋を不自然なほど真っ直ぐに伸ばして座っていた。
彼の手元には、プリントアウトされた何十枚ものシステム移行計画書と、ログデータのハードコピーが乱雑に積み上げられている。だが、絢斗の視線はそれらの資料を追ってはいなかった。彼の両目は、完全に虚空を見つめており、頭脳の大部分は、今もなお自宅のリビングでスマートフォンに齧り付いていた時と変わらず、「東条雅彦」という存在の残像によって占有されていた。
東条医師から「一回も現場に行かないこと」という絶対的な戒律を課されてから、今日で十日目が経過しようとしていた。
強迫観念の怪物は、絢斗の脳内で暴れ狂い続けている。「お前は確認を怠った」「お前のせいで誰かが破滅する」という幻聴のような叫びが、耳の奥で四六時中鳴り響いていた。現場へ行って確認したいという猛烈な禁断症状を、絢斗は東条への狂信的な忠誠心だけでねじ伏せていた。その結果、彼の精神は極限まで磨り減り、現実世界に対する認知の壁は、いまや薄氷のように脆くなっていた。
(耐えろ……。行くな。ここで確認行為に走れば、僕はあの待合室のゴミクズたちと同じになる。先生の完璧な人形であり続けるために、僕は『何もしない』という苦痛を完璧に飼い慣らさなければならないんだ)
脳内で繰り返される呪文のような自問自答。そのせいで、目の前の会議室で行われている「現実の議論」が、まるで水中に潜って聞く他人の話し声のように、酷く遠く、現実味のないノイズとしてしか感知できなかった。
「――おい、成瀬。聞いてるのか」
すぐ隣から降ってきた、低く押し殺した声。職場の先輩である五味が、絢斗のジャケットの袖を机の下で強く引っ張った。五味の顔は、昨夜の電話の時以上に深刻な影を帯びており、その額には嫌な汗が滲んでいる。
絢斗はハッと我に返り、いつもの「優秀な青年」の笑顔を、顔の筋肉を機械的に動かして貼り付けた。
「あ、すみません、五味さん。データの整合性を頭の中でシミュレーションしていました」
『整合性も何も、もうそんな段階じゃねえんだよ』
五味は忌々しげに歯噛みし、視線で長机の対面に座る男を指し示した。
そこに座っていたのは、今回の大型プロジェクトのシステム開発を統括する他部署の責任者であり、社内でもその横暴さとヒステリックな気性で恐れられている部長――大河原だった。大河原の顔は怒りで般若のように歪んでおり、手元のタブレット端末を、壊れんばかりの力で何度も人差し指で叩きつけている。
今回のトラブルは、絢斗の所属する営業企画部ではなく、大河原が率いる開発部側の明らかな「人為的ミス(バグの放置)」が原因だった。明日の本番リリースを前に、システムの一部が完全にクラッシュし、クライアントへの多大な損害賠償が発生しかねないという、まさに致命的な経営危機。
本来であれば、大河原がその全責任を負い、頭を下げて徹夜の復旧作業を指揮すべき局面だった。しかし、保身の塊である大河原は、自らのキャリアが水泡に帰す恐怖から、狂ったように「犯人探し」を始めていた。そして、その矛先は、このプロジェクトのフロントに立ち、最近職場で「上の空」だと噂されていた、最も反論しなさそうな若手――成瀬絢斗へと定まりつつあった。
大河原は、ギラギラとした濁った目で絢斗を睨みつけると、机をドカンと両手で叩いて立ち上がった。
「成瀬ぇ! お前、さっきから何ボサッとしてるんだ! このログの改ざん……いや、この設定ミスは、お前が先週クライアントから持ち帰った『要望書』の数値と完全に一致してるんだよ! 開発側に渡すデータのチェックを怠ったのは、営業企画部、いや、担当のお前だろうが!」
大河原の怒号が、会議室の狭い空間に爆発した。
それは、明らかな論理の飛躍であり、自らの過失を弱者に押し付けるための、醜悪で理不尽な「泥の擦り付け」だった。
会議室に同席している他部署の人間たちは、大河原の剣幕に怯え、あるいは自分が巻き添えを食うのを恐れて、一様に視線を落とし、沈黙を決め込んでいる。部屋の中に、大河原の荒い鼻息と、プロジェクターの不快なファンの音だけが響き渡る。
本来であれば、ここで怒るべきだった。あるいは、自らの潔白を証明するために、手元の資料を基に整然と反論すべき場面だった。大河原の言っていることは、客観的な事実から完全に逸脱した、ただの言いがかりなのだから。
しかし、大河原の怒号が絢斗の鼓膜を震わせた瞬間、絢斗の脳内で、全く別のスイッチがパチリと音を立てて切り替わった。
(ああ……まただ。またこの空気だ。僕が完璧でなかったから、世界が怒り狂っている。僕のせいだ。僕が不完全だから、この理不尽なバグが発生したんだ)
大河原の怒れる顔が、絢斗の視界の中で急速に歪み、拡大していく。
そしてそれは、幼少期、居間の片隅で自分に向けて怒鳴り散らしていた、あの実の父親の顔へと、おぞましいオーバーラップを起こして重なり合っていった。
過去の恐怖。完璧でなければ存在を許されないという、あの窒息しそうなトラウマ。
そこから逃れるため、そして目の前で起きようとしている「大衝突」という名の予測不能な不確実性を力づくで回避するため、絢斗の脳は、自らの「感情」を完全にシャットダウンするプロセスを、冷酷に、そして迅速に開始した。
彼の心から、怒りも、悲しみも、悔しさも、すべての人間的な色彩が一瞬で消え去り、真っ白な虚無へと塗りつぶされていく。
外の世界の理不尽な暴風が吹き荒れる中、絢斗の精神は、東条の教え通りに、一切のノイズを排した「無機質なマシーン」へと変貌しようとしていた。
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