不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>「おい、成瀬! 聞いているのかと聞いているんだ! 耳までバグったのか!」</p><p>大河原部長の突き刺さるような怒号が、再び会議室の壁に跳ね返った。彼の突き出した太い人差し指が、絢斗の目の前で細かく震えている。その指先から放たれる強烈な害意と、口から飛び散る唾沫の不快さが、絢斗の視界を奇妙に歪ませていた。</p><p>大河原の背後にあるホワイトボードには、複雑なシステム構成図と、今回の致命的なクラッシュを示す赤字のログエラーが、プロジェクターによって無慈悲に投影されている。誰がどう見ても、開発側のサーバー構築時の設定ミスであり、営業企画部が提出した要望書とは何の関係もない。それは
本文
「おい、成瀬! 聞いているのかと聞いているんだ! 耳までバグったのか!」
大河原部長の突き刺さるような怒号が、再び会議室の壁に跳ね返った。彼の突き出した太い人差し指が、絢斗の目の前で細かく震えている。その指先から放たれる強烈な害意と、口から飛び散る唾沫の不快さが、絢斗の視界を奇妙に歪ませていた。
大河原の背後にあるホワイトボードには、複雑なシステム構成図と、今回の致命的なクラッシュを示す赤字のログエラーが、プロジェクターによって無慈悲に投影されている。誰がどう見ても、開発側のサーバー構築時の設定ミスであり、営業企画部が提出した要望書とは何の関係もない。それは、この場にいる全員が内心で理解している「事実」だった。
しかし、この部屋にいる誰もが、その事実を口にしようとはしなかった。他部署の課長たちは、大河原の凄まじい逆上ぶりに巻き込まれるのを恐れ、まるで石像のように固まって手元の資料を見つめ続けている。ノートPCを叩くタイピング音すら途絶え、部屋はただ、一人の権力者が放つ理不尽な暴力に蹂躙されていた。
(ああ、そうだ。この世界は、最初から理不尽で満ちているんだ。事実なんて何の意味もない。力が強い者が、声が大きい者が、すべてを正義に塗り替えていく。僕がいくら完璧にデータを整えても、いくら夜の路地で不安に耐えても、外の世界はこうして一瞬で僕の足元を爆破するんだ)
絢斗の脳の最深部で、冷え切った声が響いていた。
彼の心臓は、大河原の叫び声に連動して激しく警報を鳴らそうとしていたが、絢斗はそれを自らの強靭な意志の力で強制的に抑え込んだ。ここで恐怖に震えたり、あるいは怒りに任せて反論したりすることは、東条先生の言う「感情の暴走」に他ならない。感情を動かすことは、脳に余計な負荷をかけ、強迫観念の怪物をさらに肥大化させる「最悪のバグ」なのだ。
大河原の罵倒が、さらにエスカレートしていく。
「お前が最近、職場でずっと上の空だったのは、みんな知ってるんだぞ! 会議中もスマホばかり見て、上の命令にはマニュアル通りの返事しかしない。そんな心ここにあらずの無能がチェックしたデータだから、現場にこんな致命的なバグが混入したんだ! クライアントへの損害賠償、何千万になると思ってるんだ! お前一人で責任を取れる金額じゃないんだぞ!」
人格を否定し、すべての泥を容赦なく押し付ける言葉の暴力。
その時、絢斗のすぐ隣で、一人の男が猛然と椅子を蹴立てて立ち上がった。
「大河原部長! それはいくらなんでも筋が違いすぎます!」
五味だった。彼の顔は怒りで真っ赤に染まっており、握りしめた拳が小刻みに震えていた。いつもは要領よく立ち回るはずの先輩が、後輩である絢斗にすべての罪が着せられようとしているのを見て、ついに我慢の限界を迎えたのだ。
「今回のシステム移行ログを見れば明白です! サーバーのクラッシュが発生したのは、開発部が先週行った深夜のパッチ当ての直後です。成瀬がクライアントから預かった要望書は、その二日前にデータ連携が完了しており、何の干渉もしていません! 成瀬の最近の体調不良は俺も把握していますが、それを理由に、開発側のミスをすべて彼に押し付けるのは、組織の人間として絶対に間違っています!」
五味の声が、大河原の怒号を押し返すように会議室に響き渡った。
それは、暗闇の中に差し込んだ、唯一の「正論」という名の光だった。五味は自らの立場が危うくなることも顧みず、全力で絢斗を、外の世界の理不尽から守ろうとしていた。
しかし、その救いの手すら、今の絢斗にとっては「予測不能な大衝突」を引き起こす、極めて不快で恐ろしいノイズでしかなかった。
(止めてくれ、五味さん。余計なことをしないでくれ。そんな風に大河原部長に逆らったら、この会議は泥沼の泥仕合になる。大喧嘩になれば、会議は長引き、僕は今日の夜の予定を、東条先生のクリニックへ行くための精神的な準備を、すべて台無しにされてしまう。これ以上、この部屋の不確実性を高めないでくれ……!)
絢斗の認知は、完全に歪みきっていた。自分を庇ってくれている五味に対して感謝するどころか、「トラブルを大きくする厄介者」として激しい苛立ちを覚えていたのだ。
大河原は、五味の真っ当な反論に対して、さらに顔を歪めて嘲笑った。
「営業企画部の身内庇いか? 結構なことだな、五味! だったらお前が代わりに責任を取るのか? ええ!? 連携ミスがあったのは事実だろ! 開発部だけのせいにするな! そもそも成瀬のあの態度が、プロジェクト全体の士気を下げていたんだよ! そんな奴をのさばらせておいたお前らの管理責任も同罪だ!」
大河原の怒りの炎は、今や五味にまで燃え移り、会議室は最悪の罵り合いの泥沼へと突入しようとしていた。周囲の人間たちは、さらに小さくなって息を潜めている。
五味がさらに言い返そうと、大きく息を吸い込んだ、その瞬間だった。
「……大河原部長」
遮るように放たれたその声は、驚くほど静かで、そして異常なほどに冷徹だった。
怒号が飛び交う熱狂の空間に、まるで氷水を直接注ぎ込んだかのような、異質な響き。
五味も大河原も、そして部屋にいた全員の視線が、一斉に成瀬絢斗へと集まった。
絢斗は、ゆっくりと、しかしロボットのパーツを組み立てるかのような正確な動作で、丸椅子から立ち上がった。彼の背筋は真っ直ぐに伸び、衣服には一分の乱れもない。そして、何よりも異常だったのは、その顔だった。
彼は、微笑んでいた。
大粒の涙を流していた香織の前で、そして昨夜の電話で嘘を吐いていた五味の前で浮かべた、あの精巧に作られた「無機質なレプリカの笑顔」。瞳の奥には光が一切なく、まるですべての感情を裏側から完璧に剥製にしたかのような、不気味な微笑みが、彼の唇の端に張り付いていた。
「成瀬……?」
五味が、呆然とした声を漏らした。目の前にいる後輩が、自分の知っている人間とは全く違う「異物」に変貌してしまったかのような恐怖が、五味の身体を駆け巡っていた。
絢斗は、大河原部長に向けて、深く、そして完璧な角度でお辞儀をした。
「五味さん、もう結構です。僕のために、これ以上大河原部長を怒らせないでください。……大河原部長、ご指摘の通りです。今回のトラブルの原因は、すべて僕にあります」
マシーンのような声。感情の抑揚が一切排除された、ただ音波だけを正確に吐き出すスピーカーのような声が、濁った会議室の空気を冷たく切り裂いていった。
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