不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>「……成瀬、お前、何を言っているんだ?」</p><p>隣に立つ五味の声は、もはや怒りではなく、純然たる困惑と恐怖に震えていた。</p><p>自分を犠牲にしてまで不条理な組織の暴力から守ろうとしたその後輩が、こともあろうに、自ら進んで底なしの泥沼へと飛び込んでみせたのだ。五味の目には、今の絢斗が、自ら首縄を編んで絞首台に登る狂人のように映っていた。</p>
本文
「……成瀬、お前、何を言っているんだ?」
隣に立つ五味の声は、もはや怒りではなく、純然たる困惑と恐怖に震えていた。
自分を犠牲にしてまで不条理な組織の暴力から守ろうとしたその後輩が、こともあろうに、自ら進んで底なしの泥沼へと飛び込んでみせたのだ。五味の目には、今の絢斗が、自ら首縄を編んで絞首台に登る狂人のように映っていた。
しかし、絢斗はその五味の視線に一切答えることはなかった。彼の首は、まるで精巧なサーボモーターで制御されているかのように固定され、その冷たい微笑みは、対面に座る大河原部長の顔面だけを真っ直ぐに捉えていた。
会議室の中は、先ほどまでの怒号の応酬が嘘のように、水を打ったような静寂に包まれていた。
大河原もまた、絢斗のあまりにもあっけない、そしてあまりにも異様な「全面降伏」の前に、次の言葉を失って呆然としていた。激昂し、反論し、泥仕合になることを想定して身構えていた大河原にとって、絢斗の放った不気味なほどの従順さは、逆に薄気味悪い「異物」としてその胸に冷たい違和感を植え付けた。絢斗の瞳の奥にある、生きている人間のものとは思えない完全な虚無が、大河原の保身に塗れた魂を一瞬だけ怯えさせたのだ。
だが、大河原はすぐにその微かな恐怖を振り払い、自らの優位を確信して、さらに居丈高に胸を張った。相手が自ら罪を認めたのだ。これほど好都合な展開はない。すべての責任をこの若造に押し付け、自らの椅子を守り抜く絶好のチャンスが向こうから転がり込んできたのだ。
大河原はわざとらしく、ふん、と鼻を鳴らして長机に深く背を預けた。
「……ほう。自分の罪を認めるか、成瀬。五味が必死になってお前を庇おうとしていたが、当の本人がミスを自白したんじゃ、話にならんな。おい、どうなんだ。お前が開発側に渡した要望書の、どこにチェック漏れがあったのか、この場の全員に説明しろ」
「はい。喜んで説明いたします」
絢斗の声は、信じられないほど滑らかだった。
彼はデスクの上に置かれた計画書を、指先一つ震わせることなくめくると、大河原の理不尽な主張に整合性を合わせるための「偽りのストーリー」を、その場で即座に構築し始めた。
「先週木曜日、僕がクライアントから受領した最終要望書ですが、そこに記載されていたシステム連携のパラメータ数値を、僕が開発側の共有サーバーに転記する際、完全に誤認しておりました。開発部の大河原部長や現場の皆様は、僕が提出したその誤った仕様書に基づいて、忠実にパッチを当ててくださったに過ぎません。つまり、今回のクラッシュの全原因は、僕の初歩的な確認ミスと、その後のダブルチェックを怠った点にあります。開発部の皆様には、僕の不徳の致すところで多大なご迷惑をおかけし、本当に申し訳ありませんでした」
淀みなく、一言の淀みもなく滑り出てくる、完璧な自己批判の言葉。
絢斗は、他部署の人間たちが唖然とする中で、自分が犯してもいない「致命的な過失」を、さも事実であるかのように詳細にでっち上げ、大河原の醜悪なロジックを完璧に補強してみせた。
その姿は、自らの潔白を証明するために戦う「人間」のそれではなく、ただ目の前にある大衝突(トラブル)という名のバグを、最短ルートで強制終了させるためだけにプログラムされた「マシーン」そのものだった。
だが、その完璧なマシーンの皮の下――成瀬絢斗という一人の人間の「心の底」では、恐ろしいほどの劇薬が、限界を超えて圧殺されようとしていた。
(ああ、熱い。胸の奥が、どす黒いマグマで焼けただれそうだ――)
感情のスイッチを完全にシャットダウンしたはずだった。怒りも悔しさも、すべて脳の防壁の向こう側へと追いやったはずだった。しかし、大河原の醜悪な保身の顔を見るたび、そして自分が犯してもいない罪を自らの口で呪文のように唱えるたび、絢斗の無意識の領域では、猛烈な屈辱感と、理不尽に対する凄まじい「怒り」が、狂ったように暴れ狂っていた。
本来なら、目の前の長机をひっくり返し、大河原の胸ぐらを掴んで、その嘘で固められた顔面を殴りつけてやるべきだった。お前のミスだろうが、お前の無能のせいでどれだけの人間が泥をすすっていると思っているんだと、会議室の全員の前で叫び散らすべきだった。
だが、絢斗の歪みきった認知は、その正常な怒りの爆発を「絶対的な破滅(バグ)」として認識し、心の底へと力ずくで圧殺し続けた。
(ダメだ、怒ってはいけない。声を荒げてはいけない。もしここで僕が感情を暴発させたら、この理不尽な世界は僕を完全に異分子として排除する。父親が僕を殴り飛ばした時のように、不完全な不良品として、居場所をすべて奪われる。何よりも……そんな醜い感情の混乱を起こしたら、東条先生に嫌われてしまう。『幼児的な防衛反応だ』と、あの冷たい瞳で軽蔑されて、二度とあの聖域の診察室に入れてもらえなくなる――)
東条雅彦。その名前が、絢斗の脳内で絶対的な抑止力(システム)として作動していた。
絢斗にとって、この理不尽な会議室で泥を被ることは、もはや仕事の責任問題などではなかった。東条から課された「何もしない(不確実性に耐える)」という過酷な試練の延長線上にあり、この理不尽に耐え抜くことこそが、東条への狂信的な忠誠の証明(儀式)へと、いつの間にかすり替えられていたのだ。
(先生、見ていてください。僕は今、これほどの理不尽な暴風の中にいながら、一滴の感情も乱さずに、完璧な人形でい続けています。香織の涙も、五味さんの正論も、この大河原の罵倒も、すべてをノイズとして切り捨てて、あなたのロジックだけを胸に、僕はマシーンのように微笑んでいます。だから……だから次の診察では、僕を褒めてください。僕だけを、特別な子供として認めてください――)
内面で激しくぶつかり合う、凄絶な怒りの圧殺と、狂気的な東条への依存。
絢斗は、心の底でドロドロと渦巻く暗黒の感情のマグマに強固な蓋をし、その上に「最高の承認」という名の妄想の城を築き上げていた。その精神の二面性が、彼の張り付いたような不気味な微笑みを、より一層鋭く、狂気的に尖らせていく。
五味は、隣で頭を下げ続ける絢斗の横顔を見て、背筋に言いようのない悪寒を覚えていた。
そこにあるのは、反省の表情ではない。ましてや、恐怖に怯える人間の顔でもない。すべてを諦め、すべてを切り捨てて、自分たちとは全く違う「異次元のルール」に従って動いている、完全に壊れてしまったレプリカの顔だった。
「成瀬、お前……本当に、それでいいのか……?」
五味の絶望的な呟きは、プロジェクターの排気音の中へと、空しくかき消されていった。
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