不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>深夜二時。世界が完全に寝静まった時間、成瀬絢斗は自宅の狭いキッチンに、直立不動のまま立ち尽くしていた。</p><p>部屋の中には、冷蔵庫が放つブーという低いモーター音と、窓ガラスを不規則に叩き始めた雨粒の音だけが響いている。昼間の会議室での出来事を経て、絢斗は文字通り「すべて」を失っていた。プロジェクトからは更迭され、社内での信用は失墜し、先輩である五味からは人間としての情を完全に断ち切られた。しかし、帰宅した絢斗は、香織に対してそのことを一切報告しなかった。ただ、感情の抜け落ちた顔で「今日も疲れたから先に休むよ」とだけ告げ、香織が何かを察して涙を浮かべるのも無視して、リビングのソファ
本文
深夜二時。世界が完全に寝静まった時間、成瀬絢斗は自宅の狭いキッチンに、直立不動のまま立ち尽くしていた。
部屋の中には、冷蔵庫が放つブーという低いモーター音と、窓ガラスを不規則に叩き始めた雨粒の音だけが響いている。昼間の会議室での出来事を経て、絢斗は文字通り「すべて」を失っていた。プロジェクトからは更迭され、社内での信用は失墜し、先輩である五味からは人間としての情を完全に断ち切られた。しかし、帰宅した絢斗は、香織に対してそのことを一切報告しなかった。ただ、感情の抜け落ちた顔で「今日も疲れたから先に休むよ」とだけ告げ、香織が何かを察して涙を浮かべるのも無視して、リビングのソファに身を横たえていたのだ。
現在の衝突は回避した。五味とも大河原とも、これ以上の口論というエラーは起こさずに済んだ。すべては東条先生の「何もしない」という崇高な課題を守るためであり、自分は試練に打ち勝ったのだと、脳内で何度も自分に言い聞かせていた。
だが、人間の脳は、それほど都合よく作られてはいなかった。
昼間に大河原から浴びせられた理不尽な罵倒、それに対して自らでっち上げた醜悪な自己批判の言葉、そして心の奥底へ力ずくで圧殺した凄絶な「怒り」と「屈辱」。それらのドロドロとした負のエネルギーは、絢斗が眠りにつこうと目を閉じた瞬間、制御不能な暗黒の変異を遂げて、彼の意識の表層へと一気に噴き出してきた。
喉が焼けるように乾き、水を飲もうと起き上がってキッチンへ向かった時、それは唐突に牙を剥いた。
シンクの脇にある木製のナイフスタンド。そこに差し込まれた、一本の三徳包丁。
鈍い銀色の輝きを放つその刃物が視界に入った瞬間、絢斗の脳内に、あまりにも鮮烈で、おぞましい「映像」が強制的にフラッシュバックした。
(――僕はさっき、この包丁を握りしめて、夜の街へ飛び出したんじゃないか?)
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて大きく跳ね上がった。
全身の血の気が一瞬で引き、指先が凍りついたように冷たくなる。
(違う。そんなはずはない。僕はさっきまでソファで横になっていた。起きていたはずだ。……いや、本当にそうか? 十一時に帰宅してから、今までの記憶が完全に繋がっているか? 途中で数十分、意識を失うように眠り込んでいた時間があったんじゃないか? その『空白の時間』に、僕は……)
強迫観念の怪物が、昼間の怒りのエネルギーをすべて吸収し、過去最大級の狂暴さとなって絢斗の精神を噛み砕き始めた。今回彼を襲ったのは、これまでの「誰かを車で轢いたかもしれない」という確認漏れの恐怖を遥かに凌駕する、強烈な【加害恐怖】だった。
脳内に浮かび上がるイメージは、病的なまでに具体的で、生々しかった。
大雨の降る深夜の路地。傘も差さずに包丁を逆手に持ち、血走った目で歩く自分。前方から歩いてくる、見ず知らずの会社員の男。すれ違いざま、相手の腹部に向けて、何の躊躇もなく包丁を突き立てる自分の腕の感触。肉を切り裂き、骨にぶつかる鈍い手応え。男が短い悲鳴を上げて崩れ落ち、アスファルトに広がっていくドス黒い血液――。
「う、あ……あ、違う……僕は、やっていない……!」
絢斗は頭を抱え、キッチンの床に崩れ落ちそうになった。
やっていない。そんなことをする理由がない。自分はただの会社員だ。
しかし、彼の「バグった脳」は、その理路整然とした反論を一切受け付けない。昼間に大河原に対して覚えた「殺してやりたい」ほどの激しい怒りが、抑圧された結果、無関係な他者への「無差別な殺意」へと脳内で勝手にすり替えられ、すでに実行に移されてしまったのではないかという恐怖が、細胞の一つ一つを恐怖で支配していく。
(確認しろ。今すぐ確認するんだ。包丁を見ろ。もし本当に人を刺したなら、刃に血がついているはずだ。お前の手のひらに、返り血が残っているはずだ)
脳内からの命令(強迫衝動)に抗うことができず、絢斗は這いつくばるようにしてシンクに手をかけ、恐る恐るナイフスタンドから包丁を引き抜いた。
シャキン、という冷たい金属音が深夜の室内に響く。
絢斗は狂ったように包丁の刃先をブルーライトの光に透かし、何度も角度を変えて凝視した。
血はついていない。綺麗に磨かれたステンレスの刃が、ただ無機質に光っているだけだ。
次に自分の両手を見る。爪の間、指の節、手のひらのシワ。どこにも赤いシミなど存在しない。
「ほら……ついていない。何も落ちていない。僕は誰も殺していない。ただの妄想だ……」
絢斗は、掠れた声でそう呟き、深く安堵の息を漏らそうとした。
しかし、強迫症の真の恐ろしさは、ここからだった。一度儀式(確認行為)を始めてしまった脳は、どれほど客観的な証拠を突きつけられても、決して納得することはできないのだ。怪物は、すぐさま次の「不確実性の罠」を絢斗の前に仕掛けてきた。
(血がついていない? 当たり前だろ。お前はさっき、人を刺した後、このシンクで念入りに包丁と手を洗ったんだ。洗剤を使って、血液の痕跡を完全に洗い流したんだよ。お前がそれを『忘れている』だけだ。よく思い出せ。さっき、手のひらに生温かい感触が残っていなかったか? キッチンから、微かに鉄臭い匂いが漂っていないか?)
「あ、ああ……っ!」
絢斗は包丁を持ったまま、激しくガタガタと震え出した。
洗った。自分は人を殺した後、証拠隠滅のために包丁を洗ったのだ。だから血がついていないのだ。そう思考が繋がった瞬間、目の前にある綺麗な包丁が、逆に「完全犯罪を成し遂げた証拠」のように見えてくる。
確認行為が、さらなる不安を呼び、妄想を無限に肥大化させていく。
キッチンの排水口の奥に、目に見えない血痕が残っているのではないか。自分の着ているスウェットの繊維の隙間に、微細なDNAが固着しているのではないか。
昼間に感情をシャットダウンし、すべてを完璧にコントロールしたつもりになっていた成瀬絢斗の精神のダムは、この凶悪な加害恐怖の一撃によって、完全に音を立てて決壊した。彼は包丁を床に投げ出すと、呼吸の仕方を忘れたかのように、ただ荒い息を繰り返しながら、暗闇の中でパニックの深淵へと突き落とされていくのだった。
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