不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>タクシーが急ブレーキをかけ、水たまりを激しく跳ね上げて停車した。</p><p>「お、お客さん、着きましたよ。ここがご指定の住所です」</p><p>年配の運転手の声には、やはり隠しきれない警戒と恐怖が混じっていた。バックミラー越しに見る絢斗の姿は、あまりにも異様だったからだ。ずぶ濡れのスウェットからは今も絶え間なく水が滴り、シートを完全に濡らしている。何よりも、その両目は焦点が定まっておらず、何かに取り憑かれたようにギラギラと鈍い光を放っていた。</p>
本文
タクシーが急ブレーキをかけ、水たまりを激しく跳ね上げて停車した。
「お、お客さん、着きましたよ。ここがご指定の住所です」
年配の運転手の声には、やはり隠しきれない警戒と恐怖が混じっていた。バックミラー越しに見る絢斗の姿は、あまりにも異様だったからだ。ずぶ濡れのスウェットからは今も絶え間なく水が滴り、シートを完全に濡らしている。何よりも、その両目は焦点が定まっておらず、何かに取り憑かれたようにギラギラと鈍い光を放っていた。
絢斗は何も言わず、震える手で財布から数枚の千円札を掴み出すと、お釣りも確認せずにダッシュボードへ叩きつけるように置いた。そして、自動ドアが開くと同時に、弾かれたように大雨の夜へと飛び出した。
タクシーは、まるで厄介払いでもするかのように、すぐに猛スピードで走り去り、赤いテールランプの光が雨のカーテンの向こうへと消えていった。
深夜二時四十分。都心の一等地に佇むその街は、昼間の洗練された賑わいが嘘のように、死んだような静寂に包まれていた。
街灯の放つ淡い光が、激しく降り注ぐ雨の白い糸を無数に浮かび上がらせている。その冷たい光の中に、成瀬絢斗が求めてやまなかった「聖域」――東条クリニックの建物が、静かに浮かび上がっていた。
コンクリート打ちっぱなしの、モダンで無機質な三階建てのビル。
昼間は多くの悩める患者たちを吸い込み、東条という絶対的な神が君臨するその場所は、今はすべての窓が真っ暗に閉ざされ、生き物の気配を完全に失っていた。
「ああ……先生……東条先生……」
絢斗は、水浸しのスニーカーでアスファルトを踏み締めながら、吸い寄せられるようにクリニックの正面入り口へと歩を進めた。
彼の髪は完全に額に張り付き、冷たい雨水が絶え間なく目に入って視界を遮る。しかし、絢斗は瞬きすら惜しむように、その漆黒のガラス扉を見つめ続けた。
ガラス扉の向こうは、完全な暗黒だった。
昼間、自分が座っていた洗練された北欧家具の待合室も、東条が腰掛けているあの美しく機能的な診察室も、すべては闇の底に沈んでいる。当然だ。今は深夜であり、診療時間はとうに終わっている。東条がここにいるはずがない。そんなことは、正常な理性が一%でも残っていれば、誰にでも分かることだった。
しかし、現在の絢斗の脳内には、そんな「一般的な常識」を受け入れるスペースは残されていなかった。
彼の心を支配しているのは、キッチンの包丁を見た瞬間に爆発した「自分はさっき、無関係な人を刺し殺したのではないか」という凶悪な加害恐怖の怪物だ。その怪物から逃れるための唯一の避難所(シェルター)として、彼の認知は、この閉ざされたクリニックを、そして東条雅彦という存在を求めていた。
絢斗はガラス扉に両手を突いた。冷たいガラスの感触が、手のひらを通じて脳へと伝わる。
「先生、開けてください。僕です、成瀬絢斗です。……僕の脳が、もう限界なんです。昼間のあの理不尽な会議で、僕は先生の言う通りに感情を殺しました。一言も反論せず、完璧に泥を被ったんです。でも、そのせいで、バグが……おぞましいエラーが僕の頭の中で暴れ回っているんです」
額をガラスに押し当て、熱病に浮かされたようにブツブツと呟く。
ガラスの表面が、絢斗の荒い呼吸で白く曇っては、大雨の冷気ですぐに消えていく。
(インターホンを押せ。夜間受付のボタンがあるはずだ。そこを押して、先生を呼び出すんだ。先生に今すぐ『お前は誰も殺していない』と言ってもらうんだ。そうしなければ、お前は今すぐ警察に自首しなければならなくなるぞ)
脳内からの凶暴な命令が、絢斗の右手を動かそうとする。
ガラス扉の脇には、ステンレス製の小さなインターホンが設置されていた。そのボタンに指を伸ばしかけた瞬間、絢斗の心臓が恐怖で縮み上がった。
(ダメだ……。そんなことをしたら、先生の睡眠を妨害することになる。先生に『迷惑な患者だ』『自己管理もできない愚か者だ』と思われてしまう。そんなことをしたら、僕はあの待合室のゴミクズたち以下になる。先生に嫌われたら、僕は本当にこの世界の理不尽の中で、人殺しの妄想に狂って死ぬしかないんだ……!)
強迫行為(確認)を行いたいという強烈な衝動と、東条に不完全な姿を見せて嫌われたくないという絶望的な恐怖。
二つの相反する狂気が絢斗の精神を両側から引っ張り合い、彼の行動を完全に常軌を逸したものへと変貌させていった。
絢斗は、ガラス扉の前から一歩後退すると、今度はクリニックの建物の外周を、まるで獲物を探す獣のように徘徊し始めた。
ザーーーーッ、という容赦ない豪雨の音が、彼のストーカー的な徘徊行動を闇の中に隠蔽していた。
建物の側面の狭い路地へと侵入する。水たまりに足を踏み入れ、泥水がスウェットの裾をさらに汚していくが、絢斗は気づきもしない。彼の両目は、建物の二階、三階にある窓を執拗に見上げていた。
(先生は、もしかしたらこのビルの上階にある院長室に、まだ残って研究をしているんじゃないか? あるいは、僕のこの苦しみを見抜いて、暗闇の中から僕を観察しているんじゃないか?)
そんなストーカー特有の誇大妄想が、絢斗の脳内で急速に形を成していく。
彼は建物の裏手に回り、関係者以外立ち入り禁止の看板が掲げられた勝手口のドアノブに手をかけた。ガチャガチャ、と激しくノブを回す。当然、強固なセキュリティで施錠されている。
「先生……ここにいるんでしょう? お願いです、僕を評価してください。僕は今、大雨の中で、こんなに恐ろしい加害恐怖のイメージに襲われながらも、あの現場(路地)には戻っていません。先生の『現場に行くな』という約束を、僕は命がけで守っています。だから……だから僕を助けてください……!」
施錠された鉄扉に爪を立て、ガリガリと音を立てて引っ掻く。大雨の音に掻き消されるその音は、まさに狂気の沙汰だった。
絢斗は建物の周りを、一歩、また一歩と、狂った時計の針のようにぐるぐると回り続けた。一周しては正面のガラス扉を覗き込み、また裏手へと回る。その異様な徘徊行為は、すでに十回を超えていた。
大雨の冷気が、絢斗の肉体から確実に体温を奪っていた。唇は紫色に震え、全身の筋肉が寒さでガタガタと痙攣し始めている。
だが、その限界を迎えた肉体の苦痛の向こう側で、絢斗の精神は、東条クリニックの壁に触れているというその事実だけで、奇妙で歪んだ「全能感」に満たされつつあった。
(僕は今、先生の聖域を命がけで守っている。外の世界の理不尽も、五味さんの拒絶も、すべてをこの大雨で洗い流して、僕は先生の建物の周りを巡礼しているんだ。これは、僕が完璧な存在になるための必要な儀式なんだ――)
激しい雨の中、ずぶ濡れのまま、暗闇に閉ざされたクリニックの周囲を不気味に彷徨い続ける青年。
その姿は、日常のレールから完全に踏み外し、精神の奈落へと真っ逆さまに堕ちていく哀れな狂人の姿そのものだった。
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