不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>午前八時三十分。都心の一等地に佇む「東条クリニック」では、いつものように淡々と開院の準備が進められていた。</p><p>自動ドアの電源が入れられ、受付の女性スタッフがガラス扉の鍵を開けるためにエントランスへと向かう。彼女は、今日もこれから始まる多忙な業務に思いを馳せ、いつものルーティンとして無心に鍵を回した。カチャリ、と小気味よい金属音が響き、ガラス扉がゆっくりと左右に開く。</p><p>その瞬間、スタッフの女性は「それ」を目撃し、短い悲鳴を上げてその場に凍りついた。</p>
本文
午前八時三十分。都心の一等地に佇む「東条クリニック」では、いつものように淡々と開院の準備が進められていた。
自動ドアの電源が入れられ、受付の女性スタッフがガラス扉の鍵を開けるためにエントランスへと向かう。彼女は、今日もこれから始まる多忙な業務に思いを馳せ、いつものルーティンとして無心に鍵を回した。カチャリ、と小気味よい金属音が響き、ガラス扉がゆっくりと左右に開く。
その瞬間、スタッフの女性は「それ」を目撃し、短い悲鳴を上げてその場に凍りついた。
エントランスのすぐ脇、コンクリートの軒下の地べたに、一つの「異様な物体の塊」がうずくまっていたのだ。
それは、泥と雨水に塗れた薄汚いグレーのスウェットを身に纏い、膝を抱えて小さく丸まっていた。一見すると、都会の死角に紛れ込んだホームレスのようにも見えたが、その物体から放たれる気配は、明らかに異質だった。生きている人間としての生気が完全に枯渇している一方で、何かおぞましい執念のようなものが、その輪郭からドロドロと溢れ出している。
「あ、あの……どなたですか……? ここは間もなく開院ですが……」
スタッフが恐怖に声を震わせながら声をかけると、その塊が、錆びついた機械のようにギチギチと音を立ててゆっくりと頭(こうべ)を上げた。
乱れ髪の隙間から現れたその顔を見て、スタッフは二の句が継げなくなった。
顔面は土気色を通り越して死人のように青白く、唇は完全に紫色に壊死したかのように震えている。何よりも、その両目は無数の毛細血管が破裂したかのように真っ赤に血走り、焦点の合わない瞳がギラギラと不気味な光を放っていた。
それは、いつも端正なスーツに身を包み、知性的で丁寧な物腰を見せていた「模範的な患者」――成瀬絢斗の変わり果てた姿だった。
「せ……先生……東条、先生は……いらっしゃいますか……」
絢斗の口から漏れ出たのは、人間の声とは思えない、掠れた獣のような喘ぎだった。寒さと恐怖で激しく歯の根が合わず、言葉を紡ぐことすら満足にできていない。だが、その瞳の奥にある狂気的な渇望だけは、言葉以上に雄弁に「東条雅彦」という存在を求めていた。
「な、成瀬さん……!? どうされたんですか、その格好……! 今すぐ救急車を――」
「いらないッ……!」
絢斗は、信じられないほどの鋭さでスタッフの言葉を撥ね退けた。「救急車なんていらない……! 僕は、先生に会わなきゃいけないんだ。先生じゃなきゃダメなんだ! 予約は、今日の午前中に入っているはずです。だから、中へ……先生のところへ行かせてください……!」
彼は震える手で壁を掴み、生まれたての仔馬のようにガタガタと膝を震わせながら、強引に立ち上がった。その身体からは、泥水の饐(す)えた臭いと、極限状態の人間が放つ独特の不快な汗の臭いが混ざり合い、洗練されたクリニックの空気を一瞬で汚染していく。スタッフは、その圧倒的な狂気と悪臭に圧され、それ以上彼を止めることができなかった。
連絡を受けた院長室の東条雅彦は、デスクのモニターに映し出された防犯カメラの映像を、いつものように感情の失われたガラス玉のような瞳で見つめていた。画面の中では、ずぶ濡れのまま乾きかけた悲惨な姿の絢斗が、受付の椅子に座ることもできず、床に這いつくばるようにして震えている。
東条は、眼鏡のブリッジを人差し指で静かに押し上げると、内線ボタンを押した。
「東条です。成瀬さんを、そのまま第一診察室へ通しなさい」
その声には、驚きも、同情も、あるいは嫌悪すらも含まれていなかった。ただ実験動物の容態変化を観察する学者のような、徹底的な平熱のトーンだった。
スタッフに支えられるようにして、絢斗はクリニックの奥へと進んだ。
廊下の白い壁、均一に配置された無機質なLEDの照明、そして、BGMの類すら一切排除された、耳が痛くなるほどの完全な静寂。
絢斗にとって、この徹底的にノイズが削ぎ落とされた「白の世界」こそが、昨夜の大雨の地獄から自分を救い出してくれる唯一の聖域だった。一歩進むごとに、スニーカーから濁った水滴が床に滴り、美しいリノリウムを汚していくが、絢斗の脳はその事実にすら気づかない。彼の視線は、廊下の突き当たりにある、あの重厚な診察室のドアだけに固定されていた。
(やっと……やっと辿り着いた。あのドアの向こうに、僕の神様がいる。僕の脳のバグを、あの地獄のような加害恐怖のイメージを、一瞬で消し去ってくれる絶対的な知性が待っている――)
絢斗の胸の中に、狂気的な安堵と歓喜がじわじわと広がっていく。
昼間に職場で味わった、あの引き裂かれるような屈辱。夜中に台所で包丁を見た瞬間に爆発した、無関係な人間を惨殺してしまったのではないかという凄絶な恐怖。大雨の中、クリニックの周囲を何十周も徘徊し続けたあの孤独な夜。
それらすべての「代償」が、今、このドアが開くことで報われるのだと、絢斗は盲目的に信じ切っていた。
スタッフがドアをノックし、ゆっくりとそれを押し開ける。
「先生、成瀬さんをお連れしました」
「ありがとう。下がっていいよ」
診察室の中に、東条の静かな声が響いた。
その瞬間、絢斗はスタッフの手を振り払うようにして、診察室の中へと文字通り「転がり込んだ」。
部屋の中は、いつもと変わらず完璧な秩序に満ちていた。
デスクの上には無駄な書類は一切なく、大型のモニターが淡い光を放っている。そして、その中心に、仕立ての良いシャツを着た東条雅彦が、微動だにせず座っていた。眼鏡の奥にある瞳は、入ってきた絢斗のあまりにも悲惨な姿――泥だらけで、異臭を放ち、狂気に目を血走らせている姿――を捉えても、微かな揺らぎすら見せなかった。
その徹底的な「変わらなさ」を見た瞬間、絢斗の精神のダムは、ついに完全に決壊した。彼は診察用の椅子に腰掛けることすらできず、東条のデスクの前で、崩れ落ちるように両膝を床に突き、縋り付くようにして床に両手を伏せたのだった。
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