不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>「……主治医を、辞める……?」</p><p>成瀬絢斗の唇から、形にならない掠れた呟きが漏れ出た。</p><p>東条雅彦の口から放たれたその言葉は、無音の診察室の空気を激しく凍らせ、絢斗の耳の奥で、歪んだ電子音のような大音量のキーンという耳鳴りへと形を変えて鳴り響いた。</p>
本文
「……主治医を、辞める……?」
成瀬絢斗の唇から、形にならない掠れた呟きが漏れ出た。
東条雅彦の口から放たれたその言葉は、無音の診察室の空気を激しく凍らせ、絢斗の耳の奥で、歪んだ電子音のような大音量のキーンという耳鳴りへと形を変えて鳴り響いた。
視界が急激に色を失っていく。真っ白に美しく統一されていたはずの診察室の壁が、まるで古いフィルムが焼き切れるかのように茶黒く変色し、激しく歪んで明滅しているように見えた。頭の芯が、氷水を直接流し込まれたかのように急激に冷たくなり、思考のすべてのスイッチが強制的にシャットダウンされていく。
(嘘だ……そんなはずはない。先生は、僕を試しているんだ。僕がこの極限の絶望の中でも、本当に感情を暴発させずに完璧な人形であり続けられるかどうかを、テストしているんだ。そうだ、これは高度な治療のプログラムなんだ――)
絢斗の脳は、崩壊の危機に直面し、最後の防衛本能としてなおも都合の良い「すり替え(妄想)」を捏造しようとした。しかし、デスクの向こうに座る東条の、眼鏡の奥の瞳を見た瞬間、その往生際の悪い妄想は、跡形もなく完全に粉砕された。
そこにいたのは、自分を導いてくれる厳格な師でもなければ、試練を与える冷徹な神でもなかった。
ただ、自らの平穏な領域(テリトリー)を侵す「不法侵入者」を、冷淡に、そして徹底的に排除しようとしている、一人の冷酷な医療ビジネスの経営者としての、東条雅彦の本性がそこにあった。彼のガラス玉のような瞳には、成瀬絢斗という人間の人生に対する興味など、最初から一滴すらも存在していなかったのだ。
「先生……お願いです、主治医を辞めるなんて言わないでください……! 僕は、先生がいないと、もう一歩も生きていけないんです!」
絢斗は椅子から転げ落ちるようにして、再び床に両手を突いた。彼はプライドも、社会的な理性のすべてをもかなぐり捨てて、東条の足元へ這い寄ろうとした。しかし、東条はそれを予期していたかのように、キャスター付きの椅子を静かに後ろへと引いた。物理的な距離が、二人の間に冷酷に築かれる。
「成瀬さん、先ほども言ったはずです。私の言葉を遮るな、と」
東条の声は、微塵も荒げることなく、どこまでも静かで、深い闇のように冷たかった。
「私はあなたに、不確実性に耐えるための『手法(ロジック)』を提示したに過ぎません。しかし、あなたはそれを自らの歪んだ依存心を正当化するための免罪符として悪用し、私の存在そのものを新たな強迫行為の道具(すり替え)として利用した。これは医療契約に対する重大な背信行為です。今日のあなたの状態を見る限り、これ以上の外来治療の継続は不可能であり、むしろこれ以上の境界線の逸脱は、私や当院のスタッフに対する純然たる脅威であると判断せざるを得ません」
東条は、デスクの上に置かれた一本の高級な万年筆を手に取ると、手元のメモ用紙に滑らかな動作で何かを書き込び始めた。カリカリ、という微かな金属音だけが、耳が痛くなるほどの静寂の中に響き渡る。
「本日は、これまで通りの抗不安薬と、睡眠導入剤を上限まで処方しておきます。それを服用し、まずは自宅で安静にしなさい。……そして、次回の予約ですが、あなたのこの異常行動に対する反省と、境界線の厳守が心理的・行動的に証明されない限り、私は次回の診察室への入室を拒否します。……今日の診察は以上です。速やかに退出しなさい」
「先生……! 先生、待ってください! 僕は、僕は誰も殺していないと、それだけ、それだけ一言言ってくれれば――」
「退出しなさい」
東条は、もう二度と絢斗の顔を見ようとはしなかった。彼の視線は、手元のモニターのカルテ、あるいは次の事務作業へと完全に移っており、目の前で涙と泥に塗れてのたうち回る青年を、まるでそこに存在しない空気か何かのように扱い始めていた。
完全な、そして絶対的な拒絶。
これまで絢斗の精神を、外の世界のあらゆる暴風雨(両親のトラウマ、職場の理不尽、香織の涙)から鉄壁の強度で守り続けてくれていた、人生最大の、そして唯一の【防護服(東条への依存)】が、いま、一切の容赦なく、その肉体からビリビリと音を立てて引き剥がされた瞬間だった。
「あ、ああ……あ……っ」
絢斗の心臓が、恐怖のあまりに一瞬、完全に停止したかのような強烈な痛みに襲われた。
防護服を失い、真っ裸になった彼の精神のコアに、これまで東条という神への信仰によって無理やり抑え込んできた、ありとあらゆる「負の遺産」が、津波となって一気に押し寄せてきた。
昼間に大河原から押し付けられた、凄絶な屈辱と理不尽。
自分を本気で心配し、そして完全に見限っていった五味の絶望の目。
昨夜、自宅のキッチンで見た、あの銀色に光る三徳包丁の、無差別な殺意のイメージ。
自分の狂気に怯え、大粒の涙を流しながら自分を繋ぎ止めようとしていた、香織の悲痛な叫び――。
それらすべての、現実世界のドロドロとしたストレスと強迫観念の怪物が、牙を剥いて絢斗の脳髄を直接咀嚼し始めた。もはや、それを「バグ」として処理してくれる防衛システムは存在しない。彼を包んでいた美しい「白の世界」の檻は消え去り、そこにあったのは、自分がこれまで犯してきた「異常行動」の残骸が積み上がった、ただの底なしの地獄の深淵だった。
(僕は……すべてを失ったんだ。仕事も、キャリアも、先輩の信頼も、香織の愛情も……すべてを捨てて、僕は、この先生のロジックだけに全てを賭けたのに……。その先生からも、僕は、ただの不審者として、ストーカーとして、ゴミクズのように捨てられたんだ――)
成瀬絢斗の精神は、ここで完全に、音を立てて崩壊した。
彼の脳の回路は、圧倒的な絶望の過負荷に耐えかねて、ついに本当の「空白」へと陥った。
絢斗は、どのようにして自分が立ち上がり、どのようにして診察室のドアを開けたのか、その記憶すら残っていなかった。彼はまるで、魂を完全に抜き取られた、ただ肉体だけが惰性で動いている「幽霊」のように、ふらふらとした足取りで廊下へと歩み出た。
耳が痛くなるほどの完全な静寂が、彼の背後で、カチャリとドアが閉まる音によって完成する。
受付のスタッフたちが、腫れ物に触れるかのような、そして本能的な恐怖と嫌悪の入り混じった視線を投げかけてくるが、絢斗の網膜は、もうそれらの光景を正しく認識してはいなかった。
彼は、自動ドアを通り抜け、クリニックの外へと這い出した。
上空には、昨夜の豪雨が嘘のように、雲一つない、突き抜けるような青空が広がっていた。
眩しい夏の太陽の光が、泥だらけでずぶ濡れの絢斗の身体を、無慈悲なほど鮮明に、白日の下に曝け出していく。街を行き交う小綺麗な服装の会社員たちが、異臭を放ち、焦点の合わない目でふらつく絢斗の姿を見て、露骨に顔を顰めて距離を取っていく。
太陽の光が、痛い。世界の眩しさが、狂おしいほどに恐ろしい。
防護服を失い、精神の皮膚をすべて生きたまま剥ぎ取られた成瀬絢斗は、ただ、白日の恐怖に震えながら、自らが引き起こした人生の、完全な破滅の荒野へと、あてもなく歩き出すしかなかった。
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