不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>成瀬絢斗がどのようにして都心のクリニックから、這うようにして自分のマンションまで辿り着いたのか、その道中の記憶は完全に脱落していた。</p><p>白日の下に曝け出された自らの「異常性」と、行き交う人々からの冷酷な視線。それらから逃れるようにして、ただ動物的な本能だけで足を動かし続けた結果、気がつけば見慣れたはずの鉄扉の前に立っていた。鍵を差し込む手は激しく震え、金属同士がカチカチと悲鳴のような音を立てる。何度も鍵穴を外した末に、ようやく重い扉を押し開けた。</p><p>「……香織……?」</p>
本文
成瀬絢斗がどのようにして都心のクリニックから、這うようにして自分のマンションまで辿り着いたのか、その道中の記憶は完全に脱落していた。
白日の下に曝け出された自らの「異常性」と、行き交う人々からの冷酷な視線。それらから逃れるようにして、ただ動物的な本能だけで足を動かし続けた結果、気がつけば見慣れたはずの鉄扉の前に立っていた。鍵を差し込む手は激しく震え、金属同士がカチカチと悲鳴のような音を立てる。何度も鍵穴を外した末に、ようやく重い扉を押し開けた。
「……香織……?」
掠れた声で、その名前を呼んだ。しかし、返ってくるものは何もなかった。
部屋の中に広がっていたのは、耳が痛くなるほどの、そしてどこか冷ややかな「静寂」だけだった。
一歩、室内に足を踏み入れた瞬間、絢斗は肌に触れる空気の異質さに息を呑んだ。
いつもなら、この部屋には香織の生活の匂いが満ちていた。彼女が好んでいたアロマの微かな残香、朝食のトーストの匂い、あるいは彼女という人間がそこに存在しているだけで放たれる、体温のような温かみ。それらが、完璧に「消滅」していた。
靴箱の上には、いつも置かれていた彼女の鍵のキーホルダーがなかった。
絢斗は泥だらけの靴を脱ぎ捨てることすら忘れ、狂ったようにリビングへと進んだ。
テレビの横の棚。そこにあったはずの、二人で旅行に行った時の写真が入ったフォトフレームが消えていた。寝室のクローゼットの扉を乱暴に開け放つ。香織の服が掛けられていた右半分のスペースは、完璧に、そして冷酷なほどの潔さで「空白」に変わっていた。ハンガーが数本、主を失って所在なげに揺れている。
洗面所に走ると、彼女の歯ブラシも、スキンケア用品のボトルも、綺麗に一掃されていた。
代わりに残されていたのは、リビングのダイニングテーブルの上に置かれた、一枚の白い便箋だった。
『絢斗へ。もう、限界です。あなたのことを支えたかったけれど、今のあなたは私の知っている絢斗ではありません。実家に帰ります。もう、私を探さないでください』
香織の、震える手で書かれたであろう文字が、絢斗の網膜に焼き付いた。
「ああ……ああ、ああ……!」
絢斗の口から、獣のような絶望の咆哮が漏れた。
東条に拒絶され、自らの精神を包んでいた【最後の防護服】を剥ぎ取られただけでなく、現実の世界において自分を人間社会に繋ぎ止めていた唯一の錨――香織の愛情すらも、完全に失われてしまったのだ。
東条雅彦に切り捨てられ、五味先輩に見限られ、そして香織にも見捨てられた。
いま、成瀬絢斗という人間の周囲からは、彼を承認し、彼を保護してくれる存在が一人残らず消え去った。完全なる、そして絶対的な「孤立無援」の空間が、この四角い部屋の中に完成していた。
自分の身体が、急激に質量を失って虚空に溶けていくような、凄絶な恐怖が絢斗を襲った。
泥と雨水に塗れたスウェットのまま、彼はフローリングの床に崩れ落ちた。自分の手を見る。指先が、自分の意志とは無関係に、ピクピクと不気味に痙攣していた。
その瞬間、絢斗の心気症(自分の身体の異常への過剰な恐怖)のスイッチが、最悪の形で爆発した。
ドクン、と心臓が破裂せんばかりに大きく跳ね上がった。
続いて、胸の奥が冷たい鉄の万力で締め付けられるような、強烈な圧迫感が襲う。
(息が……できない。空気が、吸えない……!)
喉の奥が完全に閉塞してしまったかのように、いくら口を開けても酸素が肺に届かない。絢斗の呼吸は、一瞬にして浅く、激しい「過呼吸(過換気症候群)」へと突入した。「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ!」と、狂ったピストンのように短い呼吸が静かな部屋に響き渡る。
吸っても吸っても、脳が「酸素が足りない」と悲鳴を上げ続ける。血液中の二酸化炭素濃度が急激に低下し、アルカローシスを起こした身体は、絢斗に未知の恐怖を植え付けていく。
まず、唇の周囲がジリジリと痺れ始めた。その痺れは瞬く間に両手、両足へと伝播し、まるで無数の蟻が皮膚の下を這い回っているかのような、悍ましい感覚へと変わる。
「ひ、ぅ……あ、が……!」
さらに恐怖が拍車をかけ、呼吸の暴走は止まらない。
指先が硬直を始め、自分の意志では絶対に開かないほど、内側へとギュッと曲がっていった。助産師の手のような形に固まる「テタニー症状」だった。筋肉が過度に緊張し、全身がガタガタと激しく痙攣を始める。
(死ぬ。僕はここで、誰にも気づかれずに、窒息して死ぬんだ。心臓が止まる。脳の血管が破裂する……!)
死の恐怖が、絢斗の理性を完全に消し去った。彼は床の上を悶絶しながら転げ回り、自らの喉を両手で掻きむしった。爪が皮膚を裂き、赤い筋が幾本も走るが、その痛みすら呼吸困難の恐怖の前には無意味だった。
窓を開けようと、硬直した身体を引きずって壁を這う。だが、力が入らない。
床にしがみつき、喉を「ヒュー、ヒュー」と鳴らしながら、絢斗はただ絶望の暗闇の中で悶え続けた。
その時だった。
「――お前は、本当に手のかかる、汚い生き物だね」
頭の真上で、冷酷な、しかし酷く聞き覚えのある「女の声」が、幻聴のように響いた。
激しい過呼吸による脳の虚血状態、そして「息が吸えない」「全身が硬直して動けない」という絶望的な身体感覚。そのすべてがトリガーとなり、絢斗がこれまで生きていくために、精神の最深部に巨大なコンクリートで封印していた【パンドラの箱】の蓋が、不気味な音を立ててみしみしと割れ始めた。
(嫌だ。来ないでくれ。思い出させないでくれ……!)
絢斗は脳内で必死に叫んだ。しかし、ダムの亀裂はもう誰にも止められなかった。
呼吸困難の苦しみと、幼少期の「あの記憶」の感覚が、神経の電気信号を通じて完全にシンクロしていく。
部屋の白い天井がぐにゃりと歪み、色褪せ、四方の壁が急激に狭まっていく。モダンなマンションの室内は、一瞬にして、湿ったカビの臭いと、古い畳の擦り切れた臭いが漂う、あの「暗黒の実家」の情景へと変貌を開始した。
意識の底から、どす黒い記憶の濁流が、猛烈な勢いで溢れ出し、成瀬絢斗の精神を完全に飲み込んでいった。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。