不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……!」</p><p>現在のマンションの床に這いつくばる成瀬絢斗の過呼吸の音は、いつしか、二十年以上前の、あの湿った狭い空間に響く小さな少年の呼吸音へと完全に同調していた。</p><p>視界を埋め尽くしていたモダンなフローリングの木目は消え去り、代わりに現れたのは、ささくれ立ち、あちこちに黒いシミが浮き出た古い畳の表面だった。鼻腔を突くのは、安価な洗剤の匂いと、長年放置された湿気、そして人間の汗が染み付いた、実家のあの独特な「腐敗の臭い」だ。</p>
本文
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……!」
現在のマンションの床に這いつくばる成瀬絢斗の過呼吸の音は、いつしか、二十年以上前の、あの湿った狭い空間に響く小さな少年の呼吸音へと完全に同調していた。
視界を埋め尽くしていたモダンなフローリングの木目は消え去り、代わりに現れたのは、ささくれ立ち、あちこちに黒いシミが浮き出た古い畳の表面だった。鼻腔を突くのは、安価な洗剤の匂いと、長年放置された湿気、そして人間の汗が染み付いた、実家のあの独特な「腐敗の臭い」だ。
絢斗の意識は、完全に六歳のあの日に引き戻されていた。
「お前は本当に、私の人生をめちゃくちゃにする天才だね!」
金切り声が、鼓膜を容赦なく引き裂いた。
見上げた先にいたのは、髪を振り乱し、般若のような形相で自分を見下ろす母親の姿だった。彼女の手には、プラスチック製の硬いハンガーが握られている。そのハンガーが風を切る「ヒュッ」という嫌な音が聞こえた直後、絢斗の細い腕に、皮膚が引き裂かれるような激痛が走った。
「ごめんなさい! ママ、ごめんなさい! ぼくがわるかった、ぼくが悪かったから……!」
小さな絢斗は、床に頭を擦り付け、必死に謝罪の言葉を繰り返していた。しかし、自分が何を間違えたのか、なぜこれほどまでに怒られているのか、幼い脳では全く理解できていなかった。
ただ、その日の朝、脱衣所のタオルがわずかに斜めに掛けられていたとか、あるいはテレビのリモコンの位置が、母親の「マイルール」から数センチずれていたとか、その程度の些細なことだったはずだ。母親は、自らの内に溜まった社会への不満や、父親との不仲によるストレスのすべてを、都合の良い排泄口である絢斗にぶつけていたに過ぎなかった。
だが、幼い絢斗にとって、母親は世界のすべてであり、絶対的な秩序そのものだった。
彼女が「お前が悪い」と言えば、それが世界の真実になった。だから、絢斗は必死に完璧であろうとした。母親の機嫌を損ねないよう、部屋の調度品を寸分の狂いもなく並べ、自分の感情を完全に押し殺して、微笑むマシーンになろうと血の滲むような努力を重ねていた。
しかし、その「完璧主義」こそが、母親のヒステリーをさらに加速させる燃料となった。
「その目……! その、すべてを見透かしたような、生意気な目が気に入らないんだよ! 何が完璧な子供だ! お前はね、自分のことしか考えていない、冷酷なモンスターなんだよ!」
バチン、と激しい衝撃が絢斗の頬を弾いた。
身体が横ざまに吹っ飛び、畳の上に激しく叩きつけられる。口の中に、生温かい鉄の味が広がった。
母親は、怯えて縮こまる絢斗の小さな身体の襟首を掴むと、まるで汚れたゴミ袋でも扱うかのように、廊下へと引きずり出した。畳と廊下の板張りに背中が擦れ、凄絶な摩擦熱の痛みが走るが、泣き叫ぶことすら許されなかった。泣けば、さらに暴力の嵐が激しくなることを、幼い身体はすでに学習していたからだ。
「ここがお前の居場所だ。自分の薄汚い正体について、そこでじっくり考えてみなさい!」
乱暴に押し込まれたのは、和室の隅にある、暗く狭い押し入れの中だった。
ドスン、と大きな音を立てて襖が閉められ、外側から重い突っ張り棒が嵌められる音が聞こえた。完全な暗黒が、六歳の絢斗を包み込んだ。
「ママ! 開けて! ごめんなさい、いい子にするから! ちゃんと綺麗にするから、開けて……!」
絢斗は硬直した小さな両手で、襖を何度も叩いた。しかし、襖の向こうからは、テレビのバラエティ番組の呑気な笑い声と、母親が冷酷に吐き捨てる「うるさい、モンスターが」という声だけが聞こえてくる。
押し入れの中は、埃っぽく、そして極端に酸素が薄かった。
現在の絢斗を苦しめているあの過呼吸は、まさにこの時、暗闇の中で「息が吸えない」という極限の恐怖を味わった記憶の、正確な再現だった。
小さな肺が激しく上下し、冷や汗が全身から噴き出す。暗闇の奥から、無数の不気味な怪物の幻影が自分を飲み込もうと迫ってくるような錯覚に襲われ、絢斗は自らの膝を抱えて、ガタガタと震えることしかできなかった。
(ぼくが、わるいんだ。ぼくが完璧じゃないから、ママを怒らせちゃうんだ……。ぼくは、お母さんの人生を壊す、悪いモンスターなんだ……)
その「呪い」は、幼い絢斗の精神の最も深い場所に、消えない烙印として深く、深く刻み込まれた。彼が大人になってからも、異常なまでの完璧主義を貫き、少しの不潔や秩序の乱れにパニックを起こしていたのは、すべてこの押し入れの暗闇の中で、母親の愛を失わないために必死に構築した「生存戦略」の残骸だったのだ。
しかし、その圧倒的な絶望の暗闇の底で、小さな絢斗の心の中に、もう一つの「悍ましい感情」が、音を立てて産声を上げた。
それは、母親に対する、純粋で、どす黒い【殺意】だった。
(死ね……。死んじゃえ、あんな奴。消えてなくなれ……!)
それは、これまで一度も意識の表層に浮上させたことのない、絢斗にとっての最大の禁忌(タブー)だった。完璧で善良な子供でいなければ捨てられるという恐怖の裏側で、幼い絢斗は、自分を痛めつける母親の首を絞め、その狂った顔をめちゃくちゃに破壊する凄絶な妄想を、押し入れの暗闇の中で、確かに、何度も、鮮明に思い描いていたのだ。
その、自らの中に宿る「底なしの憎しみと殺意」の自覚こそが、現在の絢斗を苦しめる【加害恐怖(人を殺したかもしれないという狂気)】の、本当の正体(パンドラの箱の核)であった。
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