不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>暗黒の押し入れの中で産声を上げた「殺意」という名の怪物は、幼い成瀬絢斗の小さな胸の中で、どす黒く、拍動を続けながら急速に巨大化していった。</p><p>(殺してやる。あの女を、殺してやる。僕をこんな暗い場所に閉じ込めるあいつの首を、ちぎれるくらいに絞めて、二度とあの汚い声で僕を罵れないようにしてやるんだ――)</p><p>六歳の少年が抱くにはあまりにも凄惨で、あまりにも具体的な肉体破壊のイメージ。それは、母親から生きる権利を脅かされ続けた絢斗が、自らの精神の崩壊を防ぐために無意識に作り出した、唯一の「復讐のファンタジー」だった。しかし、それと同時に、人一倍「正しく、綺麗で、完璧な子供
本文
暗黒の押し入れの中で産声を上げた「殺意」という名の怪物は、幼い成瀬絢斗の小さな胸の中で、どす黒く、拍動を続けながら急速に巨大化していった。
(殺してやる。あの女を、殺してやる。僕をこんな暗い場所に閉じ込めるあいつの首を、ちぎれるくらいに絞めて、二度とあの汚い声で僕を罵れないようにしてやるんだ――)
六歳の少年が抱くにはあまりにも凄惨で、あまりにも具体的な肉体破壊のイメージ。それは、母親から生きる権利を脅かされ続けた絢斗が、自らの精神の崩壊を防ぐために無意識に作り出した、唯一の「復讐のファンタジー」だった。しかし、それと同時に、人一倍「正しく、綺麗で、完璧な子供」であろうとしていた絢斗にとって、実の親に対してそのような悍ましい殺意を抱く自分自身は、到底受け入れがたい「大罪人」に他ならなかった。
(違う、僕は良い子だ。ママを殺したいなんて思っちゃいけない。そんなことを考える僕は、やっぱり……ママの言う通り、本当に化け物(モンスター)なんだ)
自らの内に宿る「純粋な憎しみ」への恐怖。これこそが、彼が大人になってから「自分は何か取り返しのつかない罪を犯したのではないか」「誰かを傷つけてしまったのではないか」と怯え続ける、加害恐怖という底なしの沼の真の源流だった。彼は、自分自身の内側にある「親を殺したいほどの悪意」を直視することができず、それを「外の世界で誰かを車で轢いたかもしれない」「誰かを包丁で刺したかもしれない」という、別の不条理な強迫観念へと長年すり替え続けていたのだ。
だが、地獄は母親の暴力だけでは終わらなかった。
カチャリ、と実家の玄関の鍵が開く音が、押し入れの隙間から微かに聞こえた。
夜の九時。厳格で、一流企業に勤めるエリートだった父親が帰宅したのだ。その足音が廊下に響くたび、絢斗は暗闇の中で救いを求めるように息を潜めた。
(お父さん、お願い、助けて。僕をここから出して。お母さんが変なんだ。僕を化け物って言うんだ――)
突っ張り棒が外され、襖が乱暴に開け放たれた。眩しい蛍光灯の光に、絢斗は思わず両手で目を覆った。視界が滲む中、押し入れの前に立っていたのは、ネクタイをきっちりと締め、冷徹な表情で自分を見下ろす父親の姿だった。母親はその背後で、まるで自分が被害者であるかのように、ハンカチを顔に当ててすすり泣いている。
「あなた、聞いてちょうだい。この子はまた私の言うことを聞かずに、部屋をめちゃくちゃに汚したのよ。私の頭がおかしくなりそうなのは、全部この子のせいよ」
母親の卑劣な嘘。しかし、父親の冷たい眼鏡の奥にある瞳には、最初から絢斗の言い分を聞くつもりなど微塵もなかった。父親にとって、家庭とは自らの社会的ステータスを誇示するための「完璧な箱庭」であり、そこで泣き叫び、母親をヒステリーにさせる絢斗は、ただの「管理不届きな不良品(バグ)」に過ぎなかった。
父親は、無造作にスラックスの革ベルトを引き抜いた。
真鍮製の重いバックルが、フローリングの床に当たって、硬く、冷たい音を立てる。
「……絢斗。お前はまた、母親を困らせたのか」
「違うの、お父さん! 僕は、僕は綺麗に並べようと――」
「言い訳をするな」
システムを狂わせるバグを処理するかのような、感情の籠もらない無機質な声。
次の瞬間、空気を切り裂く鋭い風切り音とともに、硬質な革ベルトが絢斗の背中に向かって叩きつけられた。
――痛い、なんて言葉では到底表現できない、肉体が裂けるような激痛。
「ぎゃあああああっ!」
絢斗は床に転がり、必死に背中を丸めて頭を保護した。しかし、父親の手は止まらない。容赦のない機械的なストロークで、ベルトが何度も、何度も絢斗の背中、臀部、太ももへと振り下ろされた。バックルの金属部分が肉に食い込むたび、皮膚の下で血管が破裂し、どす黒い血腫が広がっていく。
「我が家に、お前のような不完全な子供は必要ない。泣くな。見苦しい。お前が泣くたびに、この家の秩序が汚されるんだ」
父親の暴力は、母親の感情的なヒステリーとは異なり、どこまでも「教育」と「矯正」という大義名分を掲げた、冷酷で論理的な洗脳だった。泣くことは悪であり、完璧でないことは罪である。その狂った家庭内ルールが、ベルトの痛みとともに、絢斗の幼い肉体と脳髄に、深く、深く刻印されていった。
「お前はね、絢斗。人間の形をした、ただのバグだ。家庭を壊し、母親の精神を病ませる、醜いモンスターなんだよ。お前が生まれてこなければ、私たちはもっと幸せだったんだ」
両親の言葉が、重なり合って絢斗の耳の奥で爆音となって木霊する。
「お前はモンスターだ」「お前はバグだ」「お前は我が家の恥だ」
床に這いつくばり、自らの流した血と涙の混ざった液体を舐めながら、六歳の成瀬絢斗は、完全に理解してしまった。この世界において、自分という存在は生きているだけで周囲を不幸にする「害悪」なのだと。だから、一寸の狂いもない完璧な人形にならなければ、自分には明日を迎える資格すら与えられないのだと。
そして、背中を滅多打ちにされながら、少年の視線の先には、リビングのテーブルの上に置かれた、あの「銀色に光る三徳包丁」の映像が、狂おしいほどの鮮明さで焼き付いていた。
(いつか、あいつらが寝静まったら。あの包丁で、お父さんの喉を掻き切ってやる。お母さんの胸を、何度も、何度も突き刺して、あの綺麗な服を全部真っ赤に染めてやるんだ――)
現在の絢斗が、キッチンで包丁を見るたびに異常なまでの殺意のイメージに襲われ、大河原からの理不尽な圧迫に対して「殺してやる」という衝動を必死に抑圧していたすべての根源が、この六歳の日、血塗られたリビングの床の上で完全に完成していた。
フラッシュバックの濁流は、さらにその深淵へと、絢斗の精神を容赦なく引きずり込んでいく。
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