不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>「……っ、ハァ、あ、が……っ!」</p><p>耳の奥で爆音となって反響していた両親の罵声が、そして空気を引き裂いて自らの肉体を損壊し続けたあの革ベルトの風切り音が、不意に遠ざかっていった。</p><p>代わりに絢斗の鼓膜に届いたのは、自らのひび割れた喉が奏でる、引き裂かれるような過呼吸の喘ぎ声だった。</p>
本文
「……っ、ハァ、あ、が……っ!」
耳の奥で爆音となって反響していた両親の罵声が、そして空気を引き裂いて自らの肉体を損壊し続けたあの革ベルトの風切り音が、不意に遠ざかっていった。
代わりに絢斗の鼓膜に届いたのは、自らのひび割れた喉が奏でる、引き裂かれるような過呼吸の喘ぎ声だった。
床に擦り付けた額に、古い畳の感触はない。皮膚に冷たく張り付いているのは、ワックスが剥げかけた、現在(2026年)の自宅マンションのフローリングの、無機質なプラスチックの質感だった。
意識が、二十数年の時間を強制的に引き戻され、静まり返った部屋の床の上へと送還される。
絢斗は、脂汗と涙で完全に張り付いた瞼を、痙攣させながらどうにか押し開いた。
視界の端がチカチカと明滅する中で、彼が真っ先に捉えたのは、リビングの天井に埋め込まれたダウンライトの、冷涼な白熱光だった。かつての実家の、あの湿ったカビの臭いや、埃っぽい押し入れの暗闇は、そこには存在しなかった。
だが、そこにある現実は、あの頃の押し入れの暗闇よりも、遥かに冷酷で、底量れない「空白」だった。
(香織……いない。本当に、誰もいないんだ……)
ダイニングテーブルの上に残された、一枚の白い便箋。
クローゼットの右半分の、あまりにも潔い空虚なスペース。
洗面所から一掃された、彼女の生活の全ての痕跡。
絢斗は、這いつくばった姿勢のまま、自らの歪んだ両手を見つめた。
指先はテタニー症状によって内側へとギュッと固まり、自らの意志では一ミリも開くことができない、醜い「助産師の手」の形のまま硬直していた。体温は完全に失われ、皮膚は不気味な土気色に変色している。
その肉体の醜悪さは、かつて両親が自分に投げつけ続けた、あの呪いの言葉を冷酷に証明しているかのようだった。
『お前はバグだ。我が家の恥だ。家庭を壊す、醜いモンスターなんだよ』
「あ、ああ……あ……っ!」
絢斗の乾いた喉から、声にならない嗚咽が漏れた。
完璧な良い子になろうとした。誰の機嫌も損ねず、誰の理不尽にも怒らず、完璧な笑顔の仮面を貼り付けて、世界の歯車になろうとした。
そして、その生存戦略の究極の形として、東条雅彦という冷徹な「理想の父親」を脳内で捏造し、そのロジックを100パーセント盲信することで、自分を守るための「甘美な檻(防護服)」を構築したはずだった。
だが、その結果はどうだ。
東条先生のプログラムを守るために、香織の差し出す本物の愛情を「ノイズ」として冷酷に切り捨て、彼女に決定的な絶望を与えて追い出した。
五味先輩の差し伸べた救いの手を「不確実性を高める邪魔者」として拒絶し、社会的キャリアを自らドブに投げ捨てて「生贄」となった。
そして、すべてを犠牲にして縋り付いたはずの東条雅彦からは、治療のバウンダリーを汚染する「不審者・ストーカー」として、ゴミのように事務的に排除され、接近禁止を宣告された。
(僕は……自分の手で、僕を愛してくれた人たちを全員傷つけて、追い払ったんだ。……僕は本当に、ママの言う通り、周りの人間を一人残らず不幸にする『モンスター』だったんだ……)
強迫症という病気(バグ)のせいではない。自分を支配するシステムのエラーのせいではない。
成瀬絢斗という男の存在そのものが、その内側にある「醜悪さ」こそが、すべての破滅を引き起こしたのだという、究極の自己否定。
そして、絢斗はついに、自分が長年恐れ続けてきた【加害恐怖】の、悍ましい本質を完全に理解してしまった。
自分が包丁を見るたびに「無関係な人を刺したのではないか」と怯え、車を運転するたびに「誰かを轢き殺したのではないか」と狂いそうになっていたのは、脳のバグなどではなかった。
かつて六歳のあの日、血塗られた畳の上で、自分をベルトで打ち据える父親の喉を掻き切り、母親の胸を何度も突き刺して殺してやりたいと願った、あの**「本物の、どす黒い憎しみと殺意」**。
それこそが、自分の中に確かに棲みついている「本物の怒り」だったのだ。
彼は、自分が親に対して抱いてしまった「本物の憎悪(殺意)」という罪悪感に耐えることができず、それを直視する恐怖から逃れるために、「自分は油断すると無関係な他者を不意に傷つけてしまう、不条理な加害恐怖症の患者」というダミーの防衛シールドを、脳内で都合よく作り出していたに過ぎなかったのだ。
怒る自分は、あの両親を惨殺しかねないモンスターである。だから、怒ってはいけない。怒りを自覚した瞬間に、自分は本物の殺人鬼になってしまう。
だから彼は、怒りのスイッチを完全に去勢し、笑顔の人形になり、東条の冷酷な治療規則に自らの首輪を差し出した。
だが、その防衛システムが、いま、一切の余韻を残さずに、完全に「決壊」した。
「先生……香織……五味さん……誰か、誰か助けて……。寂しい、暗いよ……ここから出して……!」
絢斗は、硬直した両腕で自らの頭を抱え込み、フローリングの床の上でのたうち回りながら、声を上げて泣き叫んだ。
しかし、その悲痛な叫びを拾い上げる温かい手は、この四角い部屋のどこにも存在しなかった。かつて彼を包んでいた美しい「白の檻」は消え去り、後に残されたのは、すべての関係性を自ら切断し、ただ一人で窒息死していこうとしている、泥だらけの「異常者」の惨めな姿だけだった。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……!」
過呼吸はさらに速度を上げ、脳への血流が急速に失われていく。
視界の端から、じわじわとドス黒い闇が迫り、明るいリビングの光景を侵食していく。指先だけでなく、今や顎や首の筋肉までが痙攣を起こし、全身が鋼鉄のようにカチカチに硬直して動かなくなっていく。
死の恐怖が、彼の最後の意識を冷酷に刈り取ろうとしていた。
自分はここで、誰にも気づかれずに、孤独な押し入れの暗闇の中で、本当に息を詰まらせて死んでいくのだ。それこそが、周囲を不幸にし続けた自分にふさわしい、最悪で、最も正しい結末なのだと、絢斗は意識の混濁の中で諦めを受け入れようとしていた。
その時だった。
――カチャリ。
完全な静寂に包まれていた、マンションの玄関の方から、場違いな金属音が響いた。
それは、鍵穴に金属の鍵が差し込まれ、回される音だった。
(幻聴だ……。また、僕の脳が、都合の良い救いの幻を見せているんだ……)
絢斗は、遠ざかっていく意識の輪郭でそう思った。香織はもう戻らない。五味も自分を見限った。東条は自分を警察に通報すると言った。このドアを開けて入ってくる人間など、この世界のどこにも存在するはずがなかった。
しかし、ドアノブがガチャリと音を立てて回され、重い鉄扉が外側に向かってゆっくりと押し開けられる、生々しい「物理的な音」が、暗闇に沈みかけていた絢斗の鼓膜を確かに叩いた。
「――おい、絢斗! 絢斗、いるのか!?」
低く、ぶっきらぼうで、しかし焦燥に満ちた、聞き覚えのある男の声が、静まり返った玄関ホールに鋭く響き渡った。
その声が誰のものであるかを、絢斗の混濁した脳が認識するのと同時に、リビングの入り口から、バタバタと激しい足音がこちらに向かって近づいてくる。
精神のダムが完全に決壊し、完全な空白の底へと堕ちていく絢斗の薄れゆく視界の端に、その男の「大きな影」が、大慌てで這いつくばるようにして滑り込んできた。
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