不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>「絢斗……! おい、絢斗! しっかりしろ!」</p><p>暗黒の濁流に沈みかけていた絢斗の耳の奥に、リビングのドアを乱暴に開け放つ音とともに、肺を直接揺さぶるような大きな声が響いた。 それは、現実の世界の音だった。</p><p>足音が床を激しく叩き、次の瞬間、凍りついたように動かない絢斗の身体に、驚くほど強くて、熱い、人間の手のひらの感触が伝わってきた。</p>
本文
「絢斗……! おい、絢斗! しっかりしろ!」
暗黒の濁流に沈みかけていた絢斗の耳の奥に、リビングのドアを乱暴に開け放つ音とともに、肺を直接揺さぶるような大きな声が響いた。 それは、現実の世界の音だった。
足音が床を激しく叩き、次の瞬間、凍りついたように動かない絢斗の身体に、驚くほど強くて、熱い、人間の手のひらの感触が伝わってきた。
「なんだよこれ……ずぶ濡れじゃねえか。泥だらけで……何があったんだよ! 絢斗、俺だ! 律だ! 分かるか!?」
桐生律の、焦燥に引き裂かれそうな声。 大柄な律は、リビングのフローリングの上に膝をつき、倒れ伏す絢斗の身体を強引に仰向けにひっくり返した。
絢斗の瞳には、リビングの天井灯の光が白く滲んで映っていた。その眩しい光の中に、眉間にこれ以上ないほど深い皺を刻み、必死に自分の顔を覗き込んでいる、見慣れた親友の顔が、二重、三重にブレながら浮かび上がった。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……!」
喉から漏れ出る呼吸は、未だに制御を失ったピストンのように浅く、狂ったテンポで繰り返されている。酸素が脳に行き渡らず、視界の端は常に黒い霧で塞がれたままだ。
唇の周りや手足の極度の痺れは全身を蝕み、テタニー症状を起こした両手は、硬く、指先が内側にギュッと曲がったまま、痙攣を繰り返して石のように硬直していた。
「過呼吸か……。チッ、香織ちゃんから鍵を預かって、すぐに走ってきて正解だったな」
律は一瞬、パニックになりかけたように大きく息を吸い込んだが、すぐに自らの感情を強引にコントロールした。小学校からの付き合いだ。絢斗が時折、誰もいない場所で異常な確認行動を繰り返し、精神的に追い詰められていたことを、律は誰よりも知っていた。
律は、絢斗の胸元にそっと大きな手を当て、もう片方の手で、絢斗の凍りついた氷のような冷たい右手を、自らの熱い手のひらで包み込んだ。
「いいか、絢斗。俺の呼吸に合わせろ。吸うな。いいから、まず息を吐き出せ。ゆっくり、全部吐くんだ。ほら、フーーーッ、だ」
律は、自らの大柄な胸を大きく膨らませ、絢斗の耳元で「フーーーッ」と、長く、深く息を吐いて見せた。
現代の救急医療において、過換気症候群に対するペーパーバッグ法(紙袋を口に当てる処置)は、かえって低酸素症を引き起こす危険があるため推奨されていない。正しい対処法は、患者を安心させ、介助者が呼吸のペースメーカー(同調)となって、ゆっくりと「呼気(吐く息)」を促すことだ。
「いいから吐け。死にやしねえから、俺の手の温もりだけを感じて、吐き出せ」
律の手は、驚くほど熱かった。その手から伝わる圧倒的な「人間の体温」が、凍りついていた絢斗の感覚受容器を物理的に刺激し、彼の歪みきった脳に「自分はまだ生きている」という、強烈な現実を叩き込んできた。
「あ……ふ、ぅ、う……」
絢斗の喉から、掠れた、震える吐息が漏れた。
律が背中を何度も、優しく、しかし確かな強さでさすり続ける。その手の平のストロークに合わせて、絢斗の狂っていた肺の運動が、徐々に、じわじわと、本来の規則正しいテンポを取り戻し始めていった。
唇の痺れが僅かに和らぎ、肺の奥に、本物の酸素がゆっくりと満ちていく感覚が戻ってくる。
だが、意識が少しずつ明瞭になるにつれて、絢斗の脳内で、再び別の「不吉なシグナル」が鋭く点滅し始めた。
目の前にいるのは、桐生律。自分を本当に心配し、半休を取ってまでクリニックについてきてくれた、大切な、そして健全な日常の住人。 それに対して、今の自分はどうだ。
スーツを泥まみれにし、深夜に主治医のクリニックの周囲を不審者として何十周も徘徊し、挙句の果てに「親を殺したかった」という悍ましい本物の殺意を胸の底に抱えた、取り返しのつかない化け物(モンスター)だ。
(触るな……。僕に関わるな、律。お前まで、僕に汚されてしまう……。僕の中にいる『モンスター』が、お前を壊してしまうんだ!)
「い、嫌だ……来るな! 触るな、律……っ!」
絢斗は、硬直したままの身体を必死に床の上で悶えさせ、律の熱い手を、自分の肘を使って強引に押し戻そうとした。
自分の皮膚に付着しているかもしれない「泥(罪の痕跡)」を、自分の中に眠る「他者を破壊しかねない悪意」を、これ以上この健全な親友に伝染させてはならないという、強迫的な【加害・汚染恐怖】が、再び彼の肉体を支配したのだ。
「あはは……触っちゃ、ダメだ。僕は、僕は汚れているんだ。僕は人を、お前を、傷つけるかもしれないんだ……!」
絢斗の顔に、再び引きつったような、不気味で完璧な「笑顔の仮面」が貼り付こうとした。瞳に涙を溜め、過呼吸で肩を震わせながら、口元だけを左右対称に引き上げるその姿は、痛々しさを通り越して、まさに狂気そのものの異形だった。
自分はモンスターだ。近寄る人間をすべて不幸にし、汚染する怪物。だから、誰とも触れ合ってはならない。一人で、この暗い押し入れ(部屋)の中で死んでいかなければならないのだと、絢斗の脳は自責のロジックを必死に叫んでいた。
しかし、律はその絢斗の不気味な笑顔を、そして押し戻そうとする拒絶の動きを、力ずくで、真っ向から叩き潰した。
「ふざけんな!!」
律の、耳元で炸裂するような、剥き出しの、本気の大声。
律は絢斗の細い両肩を、自分の大きな両手で、骨がミリミリと軋むほどの力でガシッと力任せに掴み、そのままフローリングの床から絢斗の上半身を強引に引き起こした。
「傷つけるだと? お前みたいな、今にも消えてなくなりそうなガリガリの奴に、誰が傷つけられるってんだよ!
汚れてるなら、後でいくらでも風呂に入って洗えばいいだろうが!」
肩に食い込む律の指の強烈な痛み。
それは、東条医師の診察室の無機質な無音や、冷め切ったチキンのトマト煮込みの白く固まった脂とは全く違う、圧倒的な「生命の熱量」そのものだった。
「いいから、俺を拒絶するな、絢斗。二十年も付き合ってんだ。お前が一人で勝手に化け物になって、勝手に消えていくのを、俺が黙って見てるわけねえだろ!」
律の大きな、真っ直ぐな瞳が、絢斗の血走った、怯える目を、至近距離から真っ向から射抜いていた。
その強固で、一切のブレがない現実のアンカー(錨)が、絢斗の精神の深淵に、ガツンと力強く、最初の「楔」を打ち込んだ瞬間だった。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。