不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>「いいから、俺を拒絶するな、絢斗」</p><p>律の熱い手のひらが、絢斗の泥だらけの細い肩を、骨がきしむほどの強さで掴んでいた。その強烈な圧力は、絢斗を奈落へと引っ張り落とそうとしていた過去の濁流をせき止め、現在の冷たいフローリングの床の上へと力ずくで引き戻していた。</p><p>「あ、ああ……っ」</p>
本文
「いいから、俺を拒絶するな、絢斗」
律の熱い手のひらが、絢斗の泥だらけの細い肩を、骨がきしむほどの強さで掴んでいた。その強烈な圧力は、絢斗を奈落へと引っ張り落とそうとしていた過去の濁流をせき止め、現在の冷たいフローリングの床の上へと力ずくで引き戻していた。
「あ、ああ……っ」
絢斗の顔に貼り付いていた、あの不気味で完璧な「笑顔の仮面」が、内側からの激しい歪みに耐えかねて、パキリと音を立てて崩壊した。
引きつっていた口角が力なく下がり、代わりに、喉の奥にせき止められていた凄絶な悲鳴が、子供のようなしゃくり上げとなって溢れ出た。
「り、律……僕は……僕は、化け物なんだ。お前の知っている僕は、どこにもいないんだよ……!」
「化け物だろうが何だろうが知るかよ。ここにいるのは、ずぶ濡れでガタガタ震えてる、ただの成瀬絢斗だろうが」
「違うんだ! 分かってない、何も分かってないよ!」
絢斗は、硬直が解け始めた自らの冷え切った両手で、律の厚手のジャケットの胸元を、爪が食い込むほどの強さでくしゃくしゃに掴んだ。彼は、東条の診察室で一度も口にすることができなかった、そして誰にも――自分自身にすら隠し続けてきた、自らの中の「最も悍ましい真実」を、血を吐くような絶叫とともに吐き出し始めた。
「僕はね、人を傷つけるんだ……。いつか、無関係な誰かを、本当に殺してしまうかもしれないんだ! 昨夜だって……キッチンの包丁を見た瞬間、頭の中に悍ましい映像が浮かんだ。僕が、あの包丁を握りしめて外に飛び出して、夜道ですれ違ったサラリーマンの腹を、何度も、何度も突き刺して殺す映像が、あまりにも鮮明に……! 僕は自分の記憶が信じられないんだ。本当に、空白の時間に、あの人を殺しに行ったんじゃないかって、恐怖で、気が狂いそうなんだ……!」
絢斗は、律の胸に顔を押し当てながら、狂ったように言葉を捲し立てた。
これまでの「ひき逃げ」や「駅のホームでの接触」といった強迫観念。それらを恐れるあまり、深夜の路地やクリニックを徘徊し、仕事も、恋人も、すべての社会的地位を失ったこと。その狂気的な強迫症(OCD)の、本当の「核」を、彼は震える声で告白した。
「でもね……違うんだ、律。僕が本当に恐れているのは、包丁のせいでも、記憶のバグのせいでもないんだ。……僕は、お父さんと、お母さんを、本当に殺したいと思っていたんだよ!」
その言葉が放たれた瞬間、完全な無音の部屋の空気が、さらに一段と重く沈み込んだ。
絢斗は、自らの内に秘められた最も深いタブーを口にしたことで、全身を激しく痙攣させながら、涙でぐしゃぐしゃになった顔を歪めた。
「暗い押し入れの中で、お母さんに『モンスター』って罵られていた時。お父さんに、教育だ、矯正だ、バグを直すんだって言われて、ベルトのバックルで背中を滅多打ちにされていた時。……僕、リビングのテーブルの上の包丁を見つめながら、本気で思ったんだ。あいつらが寝静まったら、あの包丁で、お父さんの喉を掻き切ってやろうって。お母さんの胸を何度も刺して、あの綺麗な服を血で真っ赤に染めてやろうって……! 六歳の僕の中にあったのは、純粋な、どす黒い【殺意】だったんだよ……!」
言葉を紡ぐたびに、絢斗の心臓が破裂しそうなほどの痛みを訴えた。
親を殺したいほどに憎んでいた自分。その「本物の悪意」を自覚したあの日、幼い絢斗の心は完全に壊れた。親を殺したいと思った自分は、あいつらの言う通り、本当に生まれ落ちてはいけなかった「モンスター」であり「バグ」なのだという、猛烈な罪悪感。
「僕は、自分の中にあるその殺意が、あの憎しみが、怖くてたまらなかったんだ。だから……だから、怒っちゃいけない。誰に対しても、不満を持っちゃいけないって、自分を笑顔の仮面で縛り付けた。昼間、大河原部長から理不尽な責任転嫁をされた時だって、本当は、あいつを本気で殴り殺したいと思った。でも、怒ったら、僕はあの親と同じ、本物のモンスターになっちゃうから……! だから、脳のスイッチを切った。僕が全部悪いんですって、マシーンになって微笑んだんだ。でも、心の底に押しつぶした怒りが、夜になると、無関係な人を包丁で刺し殺すっていう加害恐怖に化けて、僕を殺しにやってくるんだ……!」
絢斗は、フローリングの床に自らの頭を何度も打ち付けようとした。完璧でなければ、自分の存在価値はない。バグを起こした自分には、明日を迎える資格などないのだと。
「僕はもう、終わりなんだ。香織も、お前の言う通り、僕の笑顔の仮面に絶望して出ていっちゃった。五味さんも、僕のことをただの臆病者だって見限った。そして……東条先生からも、僕はただの依存心の強い、気持ち悪い不審者として、ストーカーとして、完全に捨てられたんだ……! 僕は生まれちゃいけなかったバグなんだよ、律! だから、僕をここから出して……いや、もう、僕をここで死なせてくれ……っ!」
絶叫の後、絢斗の身体は完全に力を失い、律の腕の中で、ただ泥水のようにぐにゃりと崩れ落ちた。
彼を守っていた全ての殻が引き剥がされ、内側の「むき出しの狂気と傷跡」が、完全に白日の下に曝け出されていた。
律は、その絢斗の凄絶な「告白」を、ただ黙って聞き続けていた。
彼の大きな身体は、絢斗がどれほど悍ましい殺意を叫ぼうとも、どれほど自己否定を繰り返そうとも、微塵も後退することはなかった。それどころか、律は、ただ哀れな子犬のように震える絢斗の細い身体を、自らの大きな両手で、包み込むようにさらに強く、きつく抱きしめたのだ。
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