不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>絢斗の告白が終わった後、リビングには再び、耳が痛くなるほどの静寂が戻ってきた。</p><p>ただ、這いつくばる絢斗を抱きしめる律の、静かで規則正しい呼吸の音だけが、不気味な静寂をかき消すように優しく響いている。</p><p>絢斗は、律のジャケットの布地を握りしめたまま、全身を小刻みに震わせていた。</p>
本文
絢斗の告白が終わった後、リビングには再び、耳が痛くなるほどの静寂が戻ってきた。
ただ、這いつくばる絢斗を抱きしめる律の、静かで規則正しい呼吸の音だけが、不気味な静寂をかき消すように優しく響いている。
絢斗は、律のジャケットの布地を握りしめたまま、全身を小刻みに震わせていた。
(……これで、終わりだ。お前も、僕を軽蔑する。僕がこんな恐ろしい殺意を胸の底に抱えて生きてきた狂人だと知って、五味さんや香織のように、僕から手を離して逃げていくんだ)
冷酷な現実の拒絶を予期し、絢斗は無意識に再び身体を硬直させた。
しかし、彼の肩を掴む律の両手は、一ミリたりとも後退しなかった。それどころか、律は絢斗をさらに深く、自らの胸の中へと強く引き寄せ、その濡れた背中を、大きな手のひらで何度も力強く叩いた。
「おい、絢斗。俺の顔を見ろ」
律の声は、驚くほど静かで、そして途方もなく温かかった。 絢斗は恐る恐る顔を上げ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった目を律に向けた。
律は、その大きな、少年の頃から変わらない真っ直ぐな瞳で、絢斗の血走った目を真っ向から見つめ返していた。その表情には、絢斗が恐れていた嫌悪も、忌避も、軽蔑の色も、微塵も存在しなかった。ただ、幼馴染の痛みを自分のものとして引き受ける、深い覚悟だけがそこに宿っていた。
「お前、本当にバカだな。真面目すぎるんだよ、昔から」
律は、ぶっきらぼうに、しかし優しく微笑んだ。
「お前は自分のことを『親を殺したいと思った化け物』だなんて言って、だから今でも人を傷つけるんじゃないかって怯えてる。……だけどな、絢斗。当たり前じゃねえか。そんなの、化け物でも何でもねえよ」
「え……?」
「六歳の子供がさ、母親からハンガーで殴られて、埃っぽい押し入れに閉じ込められて……父親からベルトのバックルで血が出るまで叩かれてさ。『死んじゃえ、殺してやりたい』って思わねえ子供が、この世のどこにいるんだよ」
律の言葉は、絢斗の脳内に深く根を張っていた「完璧な秩序」を、根底から優しく揺さぶった。
「俺だって、もし自分の親からそんなことされたら、そいつらの喉元を包丁で掻き切ってやりたいと思う。当たり前だろ。人間なんだからな。自分を傷つける奴を憎んで、殺したいと思うのは、自分を守るための当たり前の感情だ。お前はね、化け物でも、生まれちゃいけなかったバグでもねえんだよ」
律は、絢斗の汚れた両肩を優しく、しかし揺るぎない力強さで包み込み、一字一字を絢斗の魂に刻み込むように、はっきりと告げた。
「お前はただ、傷つけられて、めちゃくちゃに痛い思いをして、怒っていただけの……普通の、ただの人間なんだよ、絢斗」
普通の、ただの人間。
その言葉が、絢斗の鼓膜を通じて脳髄の最深部へと達した瞬間。
二十数年の間、彼の精神を縛り、窒息させ、笑顔の仮面という冷たい鉄格子のなかに閉じ込め続けていた【両親からの呪い】が、内側から激しく、粉々に砕け散った。
(僕は……化け物じゃ、なかった。怒ることは、親を憎むことは、不完全なバグなんかじゃなくて……ただの、当たり前のことだったんだ……)
「泣くことはバグであり、完璧でないことは罪である」という、かつて両親のベルトの痛みとともに肉体に刻印された狂ったルールが、幼馴染の放った、圧倒的な「健康な現実」の光によって、完全に無効化された。
その瞬間、絢斗の胸の奥で、何かが決定的に「解凍」された。
「あ……あ、あ、あああ……!」
絢斗の口から、今度こそ、作った笑顔でも、取り繕った定型句でもない、本物の感情の濁流が溢れ出た。
彼は、律の胸に完全に顔を埋め、まるで六歳のあの日、押し入れの中で泣くことすら許されなかった小さな少年のように、声を上げて、激しく、激しく泣きじゃくった。
「うあああ、う、あああああ……っ!」
喉を引き裂き、肺を痙攣させながらの、子供のような号泣。 涙と鼻水が律のジャケットを濡らし、泥だらけの手が彼の背中を強く掴んで離さない。
泣くことは見苦しいことではなかった。感情を露わにすることは、世界を壊すモンスターの証明などではなかった。ただ、傷ついた肉体が、傷ついた魂が、その痛みを外界へと排泄するための、極めて健全で、まともな人間の生理反応だったのだ。
律は、自分の胸の中で、骨が折れそうなほど小さくなって泣き叫ぶ親友を、ただ黙って、さらに強く抱きしめ続けた。
彼は何も言わなかった。安易な慰めも、根拠のない「大丈夫だ」という保証も口にしなかった。ただ、絢斗の背中を、自らの大きな、熱い手のひらで何度も、何度も、優しく叩き続けた。
「いいよ、絢斗。全部泣き落とせ。二十年分、押し入れの中に閉じ込めてきた涙を、全部ここで吐き出していけ」
外では、雲一つない突き抜けるような夏の青空が、相変わらず眩しく東京の街を照らしていた。
しかし、今の絢斗にとって、その白日の太陽は、もう自分の異常性を暴き立てる「無慈悲な光」ではなかった。
ただ、自分をこの世に繋ぎ止め、温めてくれる、当たり前の現実の光だった。
泥だらけのフローリングの上で、二人の男が、互いの体温を分け合うようにして、ただ静かに寄り添い合っていた。
成瀬絢斗の精神のダムは完全に決壊したが、それは破滅への決壊ではなかった。彼が、失われた「本当の人間としての人生」を取り戻すための、再生のダムの放流だったのだ。
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