不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>成瀬絢斗の激しい号泣は、どれほどの時間続いていただろうか。</p><p>二十年以上の間、湿った押し入れの暗闇の奥に、そして「完璧な人形」という冷たい鉄格子の裏に閉じ込められ、せき止められていた本物の感情の濁流。それがすべて涙となって流れ落ち、床の泥や汗を洗い流していくかのようだった。</p><p>「……ハァ、あ、ふぅ……」</p>
本文
成瀬絢斗の激しい号泣は、どれほどの時間続いていただろうか。
二十年以上の間、湿った押し入れの暗闇の奥に、そして「完璧な人形」という冷たい鉄格子の裏に閉じ込められ、せき止められていた本物の感情の濁流。それがすべて涙となって流れ落ち、床の泥や汗を洗い流していくかのようだった。
「……ハァ、あ、ふぅ……」
ようやく絢斗の呼吸が完全に落ち着きを取り戻した頃、リビングを満たす静寂は、先ほどまでの冷酷な「空白」ではなく、どこか穏やかな、生活の気配を含んだ温度を帯びていた。
絢斗は、律のジャケットの胸元に額を預けたまま、小さく鼻をすすった。全身の凄絶な強張り(テタニー症状)は完全に消え去り、自分の意志で、指先を動かせるようになっていた。
「おい、絢斗。立てるか」
律がそっと絢斗の肩を支え、ゆっくりと立ち上がらせた。
絢斗の脚はまだ生まれたての子鹿のように震えていたが、律のがっしりとした身体に寄りかかることで、どうにか自分の足で現実の床を踏み締めることができた。
「まず、その泥だらけの服を着替えろ。それから、顔を洗ってこい。ひどい顔だぞ」
律に促されるまま、絢斗は洗面所へと向かった。
蛇口をひねり、手のひらに溜めた冷たい水を、何度も顔に叩きつける。泥と乾いた涙の汚れが、水に溶けて排水口へと吸い込まれていく。タオルで水分を拭き取り、鏡を見上げた。
そこに映っていたのは、目の下にどす黒い隈を沈め、酷く痩せ細った、一人のみすぼらしい男の顔だった。
完璧な「聖人の仮面」は、そこにはもうなかった。引きつった笑顔を貼り付ける必要もなく、ただ、自分の不完全さをそのまま晒し出した、血の通った「成瀬絢斗」の本当の顔が、そこにあった。
寝室でスウェットを着替え、リビングに戻ると、ローテーブルの上に温かいマグカップが二つ置かれていた。律がキッチンを勝手に使い、温かいインスタントのほうじ茶を淹れてくれたのだ。
香織が去った後、あの「砂の味」しか感知しなくなっていた絢斗の味覚に、香ばしいほうじ茶の熱と香りが、じわりと優しく染み渡っていった。
「……美味いな」
絢斗の口から、自然な、飾らない言葉がこぼれ落ちた。
「だろ。お前、ずっと胃の中に何も入れてなかっただろ。顔が死人そのものだったぞ」
律はソファに深く腰掛け、マグカップを両手で包み込みながら言った。
絢斗はその隣に座り、温かいカップの熱を手のひらで受け止めながら、静かに、しかし澱みのない声で語り始めた。
「律。……僕、明日、会社へ行くよ。大河原部長のあの理不尽な泥、自分ででっち上げちゃった嘘を、ちゃんと撤回しなきゃいけない」
「……大丈夫なのか。また、あいつに怒鳴られるかもしれないんだぞ」
律は、心配そうに絢斗の横顔を覗き込んだ。
かつての絢斗であれば、「他者の怒り(大衝突)」を予期しただけで、パニックを起こして笑顔の防壁を張り巡らせていたはずだった。だが、今の絢斗の瞳には、静かで、ブレない光が宿っていた。
「怖いよ。すごく怖い。怒鳴られたら、また頭の血管が破裂しそうになると思う。……でもね、律。僕が本当に恐れていたのは、大河原部長の怒りじゃない。自分の内側にある『親を殺したいと思ったほどの、あの汚い怒り(殺意)』だったんだ。それを抑え込むために、僕は外の世界のあらゆるトラブルから、感情を殺して逃げ回っていた。でも、お前が、怒る僕は化け物なんかじゃない、普通の人間だって言ってくれた。だから……僕はもう、逃げない。怒る自分を、不完全な自分を、そのまま抱えて、大河原部長の前に立ちたいんだ」
完璧な人形にならなくてもいい。バグを恐れて、システムを去勢する必要もない。
自分は、ただ傷ついて怒っていただけの、普通の、不完全な人間なのだ。その事実を受け入れたとき、東条から課されていた「反応妨害(何もしないこと)」という意味が、彼の脳内で健康的な回復のステップへと書き換えられていた。
これまでは「東条先生に認められるための、神聖な試練」として耐えていた確認禁止。しかし、これからは「不確実な世界を、不完全な自分の足で歩き出すための、自分自身のリハビリ」なのだと。
「五味さんにも、ちゃんと言い訳をせずに謝りたい。……それから、香織にも。僕が自分の過去から、自分の醜い病気から逃げるために、彼女の優しさをどれほど冷酷に切り捨てて傷つけてきたか。そのすべての身勝手さを、今度は仮面を脱いで、本当の言葉で、彼女に伝えなきゃいけないんだ」
「おう」
律は短く頷き、ほうじ茶を飲み干すと、マグカップをデスクに置いた。
「だったら、まずは今日、飯を食って泥のように眠れ。お前、昨日から一秒も寝てねえだろ。明日、会社へ行く時は、俺も一緒についていってやる。五味さんへの謝罪の場に、俺が同席して、お前が本当に壊れてたことを証明してやるからな」
「律……」
「二十年の付き合いだ。今更、水臭いこと言うなよ」
律はぶっきらぼうに笑うと、絢斗の肩をポンと乱暴に叩いた。その温かさと痛みが、絢斗の胸を心地よく満たしていった。
二人は立ち上がり、香織が去って静まり返った部屋を、少しずつ片付け始めた。
キッチンの床に投げ出されていた、あの鈍く光る三徳包丁。絢斗はもう、その刃物を見ても、恐怖に震えることはなかった。彼は自らの手で、その包丁を静かに拾い上げ、シンクのナイフスタンドへと、正しく、静かに格納した。
外の眩しい夏の光が、窓ガラスを通じてリビングの床を優しく照らしている。
成瀬絢斗は、すべてを失った破滅の荒野に立ちながらも、隣にいる親友の熱い体温(アンカー)だけを信じて、一歩、前に踏み出すための静かな覚悟を固めていた。
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