不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>「返事もしないで何なんだ、その目は! 反省の色が全く見えんぞ、成瀬!」</p><p>大河原部長の唾沫が、絢斗のデスクに置かれたキーボードの上にポタポタと不快な音を立てて滴り落ちた。大河原は、絢斗がいつものように「僕が全部悪いです」と笑顔でひれ伏さないことに、自らのプライドを激しく傷つけられたかのように、さらに語気を強めて罵声を浴びせ続ける。</p><p>「一昨日の致命的なミスで、開発部のみならず会社全体にどれだけの損害を出したか、お前のその足りない頭じゃ理解できんのか! その上、翌日は無断欠勤で公式報告書の承認を放置するとは、言語道断だ! お前のような、最低限の社会的ルールすら守れん不良
本文
「返事もしないで何なんだ、その目は! 反省の色が全く見えんぞ、成瀬!」
大河原部長の唾沫が、絢斗のデスクに置かれたキーボードの上にポタポタと不快な音を立てて滴り落ちた。大河原は、絢斗がいつものように「僕が全部悪いです」と笑顔でひれ伏さないことに、自らのプライドを激しく傷つけられたかのように、さらに語気を強めて罵声を浴びせ続ける。
「一昨日の致命的なミスで、開発部のみならず会社全体にどれだけの損害を出したか、お前のその足りない頭じゃ理解できんのか! その上、翌日は無断欠勤で公式報告書の承認を放置するとは、言語道断だ! お前のような、最低限の社会的ルールすら守れん不良品は、このプロジェクトのみならず、この会社に置いておくわけにはいかん! 上層部に掛け合って、懲戒処分、あるいは整理解雇の方向で進めさせてもらうからな!」
オフィスの静寂の中で、大河原の威圧的な脅迫が響き渡る。
周囲の社員たちは、大河原の強烈なパワーハラスメントに巻き込まれるのを恐れ、ディスプレイを凝視したまま呼吸の音すら立てようとしない。フロアを支配しているのは、一人の傲慢な権力者による、徹底的な「蹂躙」の空気だった。
絢斗は、その理不尽な暴風雨を、ただ静かに、その身に浴びていた。
一昨日であれば、大河原の怒鳴り顔が実父のトラウマと重なり、頭がパニックを起こして自らを「石」に変えていただろう。だが、今の絢斗は、自らの内に眠る感覚をシャットダウンすることを、能動的に拒絶していた。
大河原が怒っている。理不尽に自分を罵倒し、自らの保身のために自分を排除しようとしている。
その客観的な「現実」を、彼は感情を麻痺させることなく、生身の肉体で、正しく感知していた。
「――大河原部長! いい加減にしてください!」
その時、絢斗の隣で、五味が激しく机を叩いて立ち上がった。五味の顔は怒りで真っ赤に染まり、眼鏡の奥の目は、大河原の理不尽な暴挙に対して激しい義憤の炎を燃やしていた。
「成瀬の昨日の無断欠勤は、体調不良によるものです! 私がその連絡を受け取れなかった管理不足は認めますが、それを理由に懲戒解雇など、絶対にあり得ません! それに、一昨日のシステムクラッシュの本当の原因は、開発部が行った深夜のパッチ当ての――」
五味は、自らの社会的立場が危うくなるのも顧みず、一昨日絢斗から打ち明けられた「真実の謝罪」を胸に、今度こそ大河原の設定ミスを白日の下に晒そうと、全力で盾になろうとしていた。
しかし、絢斗はそっと右手を伸ばし、五味の震える右腕に、優しく触れた。
「……五味さん。もう、大丈夫です」
「成瀬……? お前、何を言っているんだ。また一昨日みたいに、自分で泥を被るつもりか!?」
五味は、驚愕と、裏切られたような哀しみの入り混じった瞳で絢斗を見つめた。
だが、絢斗は首を小さく横に振った。彼の瞳に宿る光は、一昨日の「マシーン」のそれとは全く異なっていた。そこにあるのは、自らの足で立ち、自らの人生に責任を負うという、一人の大人の、強固な決意だった。
「五味さん。僕を庇ってくれて、本当に、ありがとうございます。……でも、これは僕の戦いです。僕自身の声で、大河原部長に話させてください」
五味は、息を呑んで絢斗の顔を見つめた。
後輩のその、かつて見たこともないほど力強く、ブレない眼差し。五味は自分の震える拳をゆっくりと下ろし、「……分かった」と短く呟いて、一歩、後ろへと身を引いた。五味は、この場を後輩の「意志」に委ねることを、男として決意したのだ。
絢斗は、大河原部長に向き直った。
彼の脳内で、あの両親が投げつけ続けた、呪いの言葉が微かに聞こえる。
『お前は不完全なバグだ。お前の内側には、醜いモンスターが棲んでいる』
(そうだ。僕の内側には、モンスターがいる。人を憎み、親を殺してやりたいとすら願った、醜い悪意が確かに棲みついている)
しかし、絢斗はもう、そのモンスターを恐れはしなかった。
律が教えてくれたのだ。自分を理不尽に傷つける者を憎み、怒ることは、自分自身の尊厳を守るための、極めて健康的で、まっとうな「人間の防衛反応」なのだと。
怒りは、システムを狂わせるバグなどではない。
踏みにじられた時、自分の境界線(バウンダリー)を守るために、脳が放つ、正当な生命の熱量なのだ。
絢斗は、心の底にコンクリートで固めて封印していた感情のシャッターを、自らの意志で、一気に、完全に解き放った。
どす黒いマグマのような「怒り」のエネルギーが、彼の精神の底から溢れ出し、冷え切っていた彼の血管を、指先を、そして喉を、猛烈な熱量で満たしていく。彼の背筋が、怒りの熱によって力強く引き伸ばされる。
絢斗は、大河原の血走った濁った目を、真正面から、逃げることなく睨み据えた。
その、笑顔の仮面を完璧に剥ぎ取り、生身の、そして凄まじい怒りの熱を孕んだ絢斗の瞳と視線がぶつかった瞬間、大河原は、まるで本物の猛獣と目が合ってしまったかのように、喉を詰まらせて一歩、不自然に後退した。
診察室で東条に見せたような「恍惚」も、一昨日の「人形の微笑み」もない。
ただ、踏みにじられた一人の人間としての、絶対的な「怒り」を宿した成瀬絢斗の姿が、そこにあった。
「大河原部長。……今朝の公式報告書ですが」
絢斗は、深く息を吸い込むと、静かに、しかしフロア全体に響き渡る硬質な声で、口を開いた。
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