不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>大河原部長に対する「初めての咆哮(反論)」を完遂したあの朝から、二週間が経過していた。</p><p>その二週間は、成瀬絢斗にとって、派手な奇跡や劇的な解決など何一つない、ただひたすらに地道で、砂を噛むような日常の再構築の時間だった。</p><p>会社では、先日のトラブルに対する公式の事故事実報告書が、五味先輩の手によって上層部へと正しく提出された。大河原部長の横暴な責任転嫁と、システム構築の設定ミスという開発側の過失が客観的数値によって証明され、絢斗に対する懲戒解雇や更迭といった理不尽な処分は完全に撤回された。</p>
本文
大河原部長に対する「初めての咆哮(反論)」を完遂したあの朝から、二週間が経過していた。
その二週間は、成瀬絢斗にとって、派手な奇跡や劇的な解決など何一つない、ただひたすらに地道で、砂を噛むような日常の再構築の時間だった。
会社では、先日のトラブルに対する公式の事故事実報告書が、五味先輩の手によって上層部へと正しく提出された。大河原部長の横暴な責任転嫁と、システム構築の設定ミスという開発側の過失が客観的数値によって証明され、絢斗に対する懲戒解雇や更迭といった理不尽な処分は完全に撤回された。
もちろん、大河原との間には決定的な亀裂が残り、絢斗自身の「無断欠勤」に対する軽い注意処分は受けることになった。しかし、絢斗の心は、不思議なほど穏やかだった。自らの声で境界線を引き、理不尽を拒絶したというその肉体の感覚が、彼の背骨を力強く支えていた。
何よりも、この二週間、絢斗は東条医師から下されていた「一回も現場に行かないこと」という、あの不行動の反応妨害(ERP)を、自らの意志で、完璧にやり抜いていた。
世田谷のあの雨の路地へ行くことも、深夜にスマートフォンで検索履歴を埋めることも、そして東条のクリニックの周りを徘徊することも、すべてを自制した。
それは、東条という「理想の親」から100点の承認をもらうための神聖な儀式ではない。
不完全な、虐待の心の傷を抱えたままの「自分」として、不確実なこの現実世界をただ生きていくための、地味で、実直なリハビリテーションとして。
そして今日、三回目の診察から数えて二週間後、予約されていた「四回目の診察日」がやってきた。
絢斗は、一人で東条クリニックのエレベーターを降りた。
自動ドアをくぐり、受付を済ませて、いつもの白とグレーで統一された待合室へと足を踏み入れる。耳が痛くなるほどの、無音の静寂。
グレーのローソファには、先客が何人か座っていた。
衣服の袖を執拗に引っ張る動作を繰り返している中年女性。小刻みな貧乏揺すりを止められないサラリーマン。彼らが放つ、強迫症特有の終わりのない儀式の気配。
二週間前、東条への狂気的な依存と選民思想に囚われていた絢斗は、彼らを「廃棄処分寸前の機械」「先生の時間を汚す泥棒」として冷酷に見下し、激しい他者嫌悪を燃やしていた。
だが、今の絢斗が彼らに向けたのは、静かで、平熱の、客観的な視線だった。
(彼らもまた、必死に戦っているんだ。僕と同じように、自分を守るための『安全装置』が暴走して、その檻の中で、傷つきながら、それでも生きていこうと、もがいているんだな)
彼らと自分を分かつ、歪んだ特権意識はもう存在しなかった。自分も、彼らも、ただ不完全なまま傷を抱えて生きている「普通の人間」に過ぎない。その当たり前の事実に気づいたとき、自分を特別な信徒に見せていたクリニックの無機質な光と冷たい空気は、今はただ、不完全なまま今日を生きる患者たちを等しく迎える、ごくありふれた医療の場として、絢斗の前に横たわっていた。
「成瀬絢斗さん。第一診察室へどうぞ」
受付の静かなアナウンスが室内に響いた。
絢斗は、胸のポケットから予約票をそっと取り出すと、立ち上がった。二週間前のような、認められたい、褒められたいという「子供の飢餓感」に満ちた跳ね上がるような鼓動は、もうなかった。自らの不完全さを、社会的地位の崩壊や香織の不在という傷跡を、そのまま背負い込んだ「一人の患者」としての、静かで、ブレない目を整えて、絢斗はあの重い防音ドアへと歩みを進めた。
ドアノブに手をかける。金属の冷たさが、自らの手のひらに確かに伝わる。
絢斗は、一度だけ深く息を吸い込むと、ドアを静かに押し開けた。
診察室の中は、二週間前と全く変わらない、白とグレーの無機質な世界が広がっていた。ブラインドの閉じられた窓、冷たい光を放つ二枚のモニター、そしてスチールデスク。
その奥に座るチャコールグレーのスーツを纏った五十代後半の医師・東条は、入室してきた絢斗の目を、眼鏡の奥のガラス玉のような瞳で、ゆっくりと見つめ返した。
絢斗のスーツやスニーカーに、あの雨の泥汚れはもうない。
彼は静かに歩み寄り、デスクの前の丸椅子に、自らの力で、背筋を真っ直ぐに伸ばして腰掛けた。以前のように、東条という絶対的な存在に『完璧な子供』として承認されることを狂おしく渇望し、自らの人生のすべてを丸投げして縋り付くようなこともなく、ただ、自分の本当の顔で、静かに言った。
「東条先生。……二週間、一度も現場へは行きませんでした。スマホでの検索も、一度も行っていません。五味さんや、香織に、安心の保証を求めることもしませんでした。……これが、僕の二週間の結果です」
絢斗は、今回はワークシートを差し出すことはしなかった。
ただ、自らの言葉で、その事実を淡々と告げた。東条は、キーボードを叩く手を止め、メモ用紙の上で弄んでいた万年筆を、ゆっくりとデスクのトレイへと置いた。コトリ、という小さなプラスチックの音が、無音の空間に静かに反響した。
東条は、眼鏡の位置を指先で微かに直すと、感情の起伏を一切排した硬質な声で、口を開いた。
「成瀬さん。あなたのその『目』を見る限り、どうやら今回は、約束を厳守していただいたようですね」
治療関係の境界線(バウンダリー)を守り抜いた絢斗と、それを迎える主治医の、最後の対峙が始まろうとしていた。
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