不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>「もし、私が優しい理想の親のフリをして、あなたの求める安心の保証を甘く与え続けていたら――あなたはどうなっていたと思いますか」</p><p>無音の診察室の中に、東条の冷徹な問いかけが静かに響き、消えていった。</p><p>絢斗は、デスクの上に置かれた東条の、一切の乱れもない細い指先を見つめた。</p>
本文
「もし、私が優しい理想の親のフリをして、あなたの求める安心の保証を甘く与え続けていたら――あなたはどうなっていたと思いますか」
無音の診察室の中に、東条の冷徹な問いかけが静かに響き、消えていった。
絢斗は、デスクの上に置かれた東条の、一切の乱れもない細い指先を見つめた。
以前の彼であれば、その問いが内包する「優しい親」や「甘い安心の保証」という仮定そのものに盲目的な喜びを感じ、一時的な救いを得たかのように深く安堵して、その甘美な響きに縋り付いていただろう。だが、今の絢斗は、自らの内に去来する記憶の重みをしっかりと引き受けながら、ゆっくりと顔を上げた。
「……僕は一生、この診察室から出られなかったと思います」
絢斗の声は、静かに、そして明確だった。
「先生が僕に『大丈夫、誰も轢いていない』『誰も殺していない』と言ってくれれば、僕はその瞬間だけは安心できた。でも、家に戻ればすぐに新しい不安が湧いて、また先生の言葉をねだる。それを繰り返すうちに、僕にとって東条先生は、僕の不確実な人生のすべてを丸投げするための『防護服』になっていた。僕は、自分の内側にある『本物の傷』から、そして自分自身の怒りから逃げるために、先生という甘美な檻に引きこもり、社会的な生を完全に放棄して自滅していたはずです」
東条は、眼鏡の奥の瞳を僅かに細め、肯定も否定もせず、ただ絢斗の言葉の続きを待つように沈黙を保った。
「先日、僕の日常はすべて崩壊しました。社会的地位も、先輩の信頼も、香織の温もりも、すべてを失って……。東条先生からも『不審者・ストーカーとして接近禁止にする』と冷酷に突き放された。でも……」
絢斗は一呼吸置き、自らの胸元をそっと左手で押さえた。
「その絶対的な孤立の底で、過呼吸になって床に這いつくばった時、僕の中で……二十年間、巨大なコンクリートで封印していたパンドラの箱が、完全に決壊したんです。先生が看破した、僕を支配していた絶対者の正体。……それは、僕の実の両親でした」
絢斗は、これまで誰にも語ることのなかった、自らの血塗られた過去を、澱みのない言葉で、東条に説明し始めた。
「僕の母は、些細なマイルールのズレを理由に、髪を振り乱してハンガーで僕を殴り飛ばすような人でした。僕を『モンスター』と罵り、廊下へ引きずり出し、和室の押し入れの中に閉じ込めて、襖の向こうから突っ張り棒をして二度と開かないようにした。埃っぽくて、極端に酸素の薄い、あの押し入れの暗闇。現在の僕を窒息させていた過呼吸や心気症の症状は、まさにあの時、六歳の僕が暗闇の中で味わった窒息死の恐怖そのものの、正確な『身体の記憶』だったんです」
東条は、手元の万年筆に一度も触れることなく、ただ絢斗の告白を、極めて真摯な臨床医の眼差しで静かに聞き続けていた。
「そして、エリートだった父は、母の癇癪を収めるためのバグフィックスとして、僕を革ベルトで滅多打ちにしました。真鍮のバックルが肉に食い込むたび、お前は我が家の恥だ、人間の形をしたただのバグだ、お前が生まれなければ私たちは幸せだった、と言われ続けました。僕は……完璧な人形にならなければ、この世界で生きることを許されないのだと、ベルトの痛みとともに肉体に叩き込まれた。だから、笑顔の仮面を被り、不完全な自分を絶対に許さない強迫的完璧主義を、生き残るための盾として構築したんです」
絢斗は一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。ここからが、彼が最も恐れ、隠蔽し続けてきた、自らの中の「醜悪な本性」だった。
「傷を負う中で、僕の視線の先には、リビングのテーブルの上に置かれた、銀色に光る三徳包丁がありました。僕は心の中で、何度も、何度も、鮮明に思い描いていた。あいつらが寝静まったら、あの包丁で、お父さんの喉を掻き切ってやろうって。お母さんの胸を突き刺して、綺麗な服を真っ赤に染めてやろうって……! 僕は、自分を支配する相手に対して、本物の、純粋な【殺意と憎悪】を抱いていたんです」
絢斗の瞳から、一筋の、静かな熱い涙が零れ落ち、彼の頬を濡らした。
「僕は、相手を殺したいと思った自分を、おぞましい『モンスター』だと恐れた。だから、怒ってはいけない。怒りを自覚した瞬間に、僕はあの支配者を本当に惨殺しかねない怪物になってしまう。だから、怒りのスイッチを完全に切り、笑顔の人形になった。そして、その『支配者を殺したかった本物の殺意』から目を背けるために、脳が『自分は不意に他者を包丁で刺し殺したのではないか』という、受動的な【加害恐怖(ダミーの強迫観念)】を作り出して、自らを罰し、隠蔽し続けていたんです。東条先生が言った『加害恐怖は、怒りをカモフラージュするための超過酷な安全装置だ』という言葉は、完全に真実でした」
絢斗は、すべてを語り終えた。
自らの醜い殺意も、完璧主義の起源も、そして自分自身が作り出していた欺瞞の檻の全貌も、カルテという解剖台の上に、自らの手ですべて晒し出したのだ。
東条は、絢斗の凄絶な説明を、一切の過剰な同情や、安っぽい感傷を挟むことなく、静かに聞き届けていた。
そして、絢斗が語り終えたのを見計らうと、東条は眼鏡の奥の瞳を穏やかに、しかし治療者としての厳格な熱を宿して光らせ、自らの薄い唇を静かに開いた。
「よく、自らの言葉でその深淵を説明しきれましたね、成瀬さん」
東条の言葉には、絢斗のこれまでの戦いと、バウンダリーの獲得に対する、最大級の「プロとしての敬意」が込められていた。
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